10年後の川喜田と日笠が「奇跡の実話」の映画を見に行った話。
原作に出てくる事柄以外(10年後日笠の詳細、映画の内容など)は私の妄想と捏造です。
初出:2018/10/23(5190文字)
(あとがき)
約束の十分前に日笠はやって来た。
川喜田さん、と言って片手を上げた。
「待たせちゃいましたか」
「いや。今来たところだよ」
日笠はさらりとした素材の半袖シャツを身につけていた。だいぶカジュアルな服装をしていると川喜田は思った。ふと疑問が湧いて、尋ねてみた。
「顔とか隠さなくていいのか?」
その問いに日笠は一瞬目の動きを止めた。そして笑みを浮かべながらこう言った。
「隠すって、有名人じゃないんですから」
「充分有名人だと思うけど……」
日笠がテレビに映ったり、新聞や雑誌で取り上げられたりしている姿を、川喜田は見てきている。
「着物じゃないと案外気づかれないんですよ」
確かに日笠の姿を思い浮かべる時、一番印象深いのは対局時の和服を身につけた姿だろう。人前に出る時はスーツを着ていることも実は多いが。
しかし、和服はいわゆる勝負服を意味していて、タイトル戦などの重要な対局で身につけられるのが慣例だった。それは言い換えれば日笠の実力を示すものでもある。
川喜田は合点がいってうなずいた。
「とりあえず映画館まで行きましょうか」
積もる話はゆっくりしましょ、と言いながら日笠は歩き出した。
日笠晴。職業はプロの棋士だ。
三段リーグでの対局後、日笠は手術を受け、治療生活を経て奨励会に復帰した。その後、あの日の言葉通りプロの棋士になり、怒濤の活躍を見せた。その姿がメディアに取り上げられ、かの棋士の経歴が異色だと話題になった。あるテレビ局が余命宣告からプロ棋士になるまでのドキュメントVTRを放映したところ、感動作だと評判が評判を産み、ついに映画化する運びとなったのだ。
彼らは今日、その『奇跡の実話』の映画を観に行く。
映画館から出た後に浴びる日射しは、夏の盛りとはいえ、ひときわ眩しく感じた。
「いい映画だったね」
エンディングに流れていた爽やかな応援歌が、まだ頭の中で響き続けていた。
川喜田のその言葉に、日笠は笑顔で応える。
「ですよね! 俺は内容確認で一度見たんですけど、大画面で見ると迫力違いますね」
映画館で見たの久しぶりだな、と日笠は両腕を上げて伸びをした。そしてこう続けた。
「暑いし、どっかお店でも入りませんか」
「ああ、そうしよう」
少し歩いて路地に入ると、まだ真新しい建物のカフェがあった。店内もひどく混み合ってはいないようだったので、彼らはその店に入った。
注文からほどなくして、グラスに入ったアイスカフェオレが二つ、テーブルの上に並んでいた。二人は丸いテーブルに向かい合って座っている。日射しが眩しすぎてブラインドがかかっていたが、その外には清々しいまでの青空と、入道雲が浮かんでいた。
日笠のカフェオレに乗っているクリームが、その雲みたいだと川喜田は思った。
二人は引き続き映画の話をした。
「あの盤面、日笠の対局のだよね」
そう尋ねると、日笠は笑みを浮かべてうなずいた。
「川喜田さんなら気づくと思った」
劇中の対局シーンは、実際の棋譜を忠実に再現したものだった。盤がはっきりと映るので、将棋に詳しい者なら気がつくだろう。この映画には将棋連盟が全面的に協力していて、将棋会館でロケを行ったり、将棋シーンでの監修がついていたりした。
川喜田は三段リーグでの対局後、プロ棋士になった日笠の活躍を見続けていた。対局の動画が配信される度に、日々の合間を縫って全編に目を通すようにしていた。忙しい中でも、対局の予定と結果は必ず確認していた。
それはあの日、日笠が口にした言葉を守るためでもあったが、川喜田自身が日笠の姿を見ていたい、と思っているのが大きい。
将棋では、負けた者が自分から宣言することで投了する。慣例ではあるが、自分で負けを認めたことで、川喜田は後悔や悔しい気持ちに折り合いをつけることができた。それは、自己の思考に囚われることなく、相手の将棋に対して全力で報いることができたからだ。
あの対局は、川喜田にとっては棋士になることを諦めた日だが、同時に、将棋をする自分を肯定できるようになった日でもあった。
棋士になる夢が破れても、やはり将棋はそこにあった。何もかも無駄になり、失うことはなかった。
そんなシンプルなことを、日笠の言葉が教えてくれたのだ。
映画のメインストーリーは、夢を追いかける主人公が余命宣告を受けるが、病気を克服しプロ棋士となって活躍するというものだ。
しかし、実話と謳いつつも映画であるし、事実そのままでは問題もあるのだろう、登場人物の名前は全て変更されていたし、かなりの脚色が加えられていた。
特に映画は、将棋を教えてくれた祖父と主人公との絆を軸に描かれていて、祖父に棋士になった姿を見せたいと奮闘するという、感動的なストーリーになっていた。
日笠は関係者の厚意で、撮影現場を一度見に行ったのだという。
「そしたら『大切に演じさせて頂きます』ってすごく丁寧に挨拶されちゃって。俺より十歳近く年下なのに、しっかりしてるなって思いましたよ」
日笠が話しているのは、映画の主人公を演じた俳優のことだ。つまり日笠本人の役に当たる。
川喜田は患者との話題作りのためにテレビなどで情報収集をしているが、その中で何度か名前を聞いたことがあった。職場の女性陣がその俳優の話題に花を咲かせているのも見たことがある。
主人公が病に侵される設定のため、そのシーンはかなり体重を落として臨んだと報じられていた。実際に映像で見ると、減量と特殊メイクの効果だろう、その姿は病的で痛々しいくらいだった。
川喜田は、思わず病気を患っていた頃の日笠を思い出してしまった。
画面の中の主人公も日笠本人も、決して将棋への情熱を失わず、眼だけは眩しすぎるくらいに輝いていた。
痩せこけた身体で、震える指で、しかし凛として将棋を指す姿が、川喜田の中に強く印象付いて残っていた。
主人公を演じたあの青年は、年若いが紛れもなくプロの俳優なのだと思う。
その思いは日笠に対しても同じだ。
画面越しに見ていても分かる。日笠の将棋はいつでも積極的で、不利な局面でも決してその姿勢は崩さない。そして心の底から将棋に対しての情熱を燃やしている。もちろん戦術が噛み合わず、時には負けることもある。しかし、次の勝負では必ず弱点を修正し、前回の対局以上のものを見せてくれる。どんな勝負に対しても常に全力で挑み続け、最善の一手を追究し続けるのが、まさしくプロ棋士としての姿なのだ。
川喜田は、自分も同じように医師としてプロになりたいと思っていた。正式な医師になって一年ほどが過ぎたが、まだまだ毎日が勉強の日々だ。しかし、奨励会にいた時のような焦りを感じているわけではなかった。自分なりのペースで毎日の経験を重ねていけば、必ずたどり着けると確信しているからだ。周囲と比べてしまっても、焦ったとしても、今できることをして前に進めば大丈夫なのだと。
「それでカメラが回るとキリッとして一気に雰囲気変わるんですよね。役者さんってすごいな」
楽しそうに話す日笠の姿を見ていると、治療が上手くいって本当によかったと思う。
あの対局の日も暑いと言いながら長袖を着ていたくらいだったが、今はこうして半袖を着て、自然に暑いと言うようになっている。
そんな、一見当たり前に思えるようなことが、何よりも奇跡なのではないかと思った。
考えてみれば、奨励会で過ごした約七年間、日笠とはあまり親しい仲ではなかった。
だが、三段リーグの人生を懸けた対局をきっかけに、十年の歳月が過ぎてもこうして会って話をしたり、将棋を指す関係が続いている。
それはとてもかけがえのない奇跡ではないかと、川喜田は思っていた。
「本当子役の子がかわいくって!……あ、子供と言えば、川喜田さんは最近仕事どうなんですか?」
なんか俺ばっかり喋ってましたね、と日笠は照れ臭そうに言った。それに首を振ると、川喜田は問いに応えた。
「まあまあ、かな。僕はまだまだ経験不足だから、毎日勉強させてもらってる」
「本当すごいですよね、リヒト先生は」
そう呼んで、日笠は口元に笑みを浮かべていた。以前、病棟で子供達に名前で呼ばれているのだと話したら、日笠も時々、軽口のようにこの呼び方をするようになったのだ。
「そんなことないよ。ただ毎日できることをやってるだけだから」
日笠は声を抑えてつぶやいた。
「……そういうところがなんだけど」
しかしその言葉は川喜田の耳には届いていない。不思議に思った川喜田が聞き返してみたが、
「なんでもないですよ」
と笑顔を返されただけだった。
ふと川喜田は最近の出来事を思い出して話した。
「子供は吸収が早いから、僕も追い付いていかないとね。病棟の子と指してても、成長が早くてびっくりするし……」
すると日笠が間髪入れずに尋ねてきた。
「指す? って将棋指してるんですか? 病院で?」
「あ、言ってなかったか? 小児病棟の子に将棋を教えてるんだ。最近は子供達同士でも指せるようになったよ……」
しかし言葉はそこで途切れた。みるみるうちに日笠の目の色が変わっていくのを、川喜田は眼の前で全て見てしまったからだ。日笠は乗り出さん勢いで叫んだ。
「何ですか、それめっちゃ楽しそう!! 俺も教えたい!」
「え、それは嬉しいけど、色々話を通さないと……」
「将棋連盟には俺が話通します!」
日笠は小気味良くなるくらいに、きっぱりと言い放った。
「駄目じゃないですよね? 子供達に将棋を教えるのは普及活動の一環なんですから、連盟の目的にも叶ってますよ」
早くも日笠は連盟側にどう話したものか思案しているようだ。
「いや、部外者が病棟に出入りするのが、衛生上問題かもしれないな。病原菌の持ち込み問題もあるし」
「防護服みたいの着たらいいんですか? 俺はそれでも構いませんよ!」
「そこまではしなくてもいいと思うけど……」
日笠はどうやら、全身を白衣のような服で完全防備する状態をイメージしているらしい。
その大胆な発想に思わず笑みがこぼれたが、同時に日笠の行動力に心底感心した。
あの対局が終わった後に宣言した時もそうだった。『絶対』と言って、日笠は全てを実現させた。彼の片方の夢を叶えてみせたのだ。
そんな彼を見ていると、日笠の将棋教室を病棟で開く日がいつか本当に来る気がした。そうなったら、子供達はどんなに喜ぶだろうと思った。その光景が自然と頭の中に浮かんで、川喜田はそれを実現したいと心から思った。
「分かった。病院側には僕が話をするよ」
「本当ですか!」
そう伝えると、日笠は嬉しそうに礼を言った。
「よろしくお願いします、リヒト先生!」
改まって礼をするので、川喜田も同じように頭を下げてそれに応えた。
顔を上げて目を合わせると、日笠は笑みを浮かべながらこう切り出した。
「そんな話聞いたら、川喜田さんと指したくなっちゃいますね」
日笠が指したいと言い出すのは毎度のことだったので、やっぱりそう来るかと川喜田は思った。その手に目をやれば、既に人差し指の上に中指を重ねている。その仕草だけで待ちきれない気持ちが手に取るように伝わってきた。
「それなら家に来るか?」
「そんな、悪いですよ」
「ここからなら、僕の家が一番近いよ」
端末のアプリケーションを利用して短時間で済ませるとしても、ずっとこの店に居座るわけにはいかないだろう。それなら自宅の方がゆっくり対局できる。
実のところ、こうなることを見越して、川喜田は部屋をざっと片付けてから出かけた。将棋盤と駒もすぐ出せる場所に用意してある。
「じゃあお言葉に甘えます。次は、俺んちで指しましょうね」
もう次の話をするのかと川喜田は思った。呆れたような気持ちと、全く彼らしいという気持ちが入り交じっていた。
「だから、後で川喜田さんの予定、教えて下さいね。休みに合わせるんで」
「忙しいだろ?」
「川喜田さんと指すんだから、意地でも予定空けますよ」
そこまで言われてしまうと返す言葉がない。
そんな川喜田の様子が伝わったのか、日笠はこう付け加えた。
「できることは全部やりたいでしょ、一度の人生なんだから」
満面の笑みを浮かべる日笠が、光を浴びて輝いて見えた。それはただ将棋が好きで、純粋に楽しんでいる者の笑顔だった。
「ああ、そうだな」
だから川喜田も微笑みながらうなずいた。
早速行きましょうと日笠が言って、二人は残りわずかになったカフェオレを飲み干し、立ち上がってレジへと向かった。