ハッピーニューイヤー

初詣に行った話(「グッドラック」)、その後の日笠視点。
2ページ目はおまけです。

初出:2019/07/16(2641文字)
あとがき

 え?
 振り向いたその人と目が合って、日笠は思わずその場に固まってしまった。
 深く考えてはいなかった。ただ、奨励会でいつもその後ろ姿を見ていたから、その延長で目を離せずにいただけだった。
 予期せぬことに、初めての事態に、反応できずにその場に立ち尽くす。
 その時、川喜田が手を上げた。緊張がふと緩んだのが分かった。柔らかな動作で、彼が手を振った。
 ハッと気づいて、日笠も大きく手を振り返した。
 その姿に安心したように、川喜田はまた踵を返し、歩いていった。今度は彼は振り向かなかった。その背中を見えなくなるまで見つめてから、日笠は家に入った。
 後ろ手にドアを閉めて、日笠はしばらく玄関先に立っていた。

 なんで、今まで気づいてなかったくせに。

 吐き出した息でマスクの中が暖かく湿った。外気に晒されていた鼻の頭がちりちりとした痛みを帯びている。
 日笠は、ふと手洗いとうがいをしなければと思った。
「川喜田さんて、風邪予防で何かやってるんですか?」
 好奇心から以前、こう尋ねたことがある。
「特には、何もないかな。外から帰ってきたら必ずうがいと手洗いをするくらいで」
 返ってきた答えは冬になれば必ず耳にするような、ごく当たり前のことだった。けれども、それを欠かさず続けている様がすぐに思い浮かぶのが、やっぱり川喜田さんらしいと日笠は思った。
「ただいま」
 玄関先で声を発し、靴を脱いだ。母親の声がお帰りと返ってくる。どうやら台所にいるらしい。
 日笠は洗面所へ向かった。まずは手袋を外した。コートを脱いで、念入りに巻いたマフラーを外し、帽子を取り、マスクを外した。
 正面の鏡に映った自分の頬が、赤く染まっていることに気づいた。
 何照れてるんだ。
 思わず動きが止まり、一瞬ですぐに、暖かい家の中に入ったからだと思い直した。日笠は小さく首を振り、水道で手を洗った。川喜田が言っていたように、ハンドソープの泡を使った。うがいを三回して、それから冷水で顔を洗った。風邪予防には顔も洗った方がいいとテレビで言っていたのを、曖昧だが思い出したからだった。
 もう一度鏡で顔を確認すると、身につけていた防寒具を持って、二階の自室に入った。
 室内はこの部屋を出た時のままになっている。窓の外を見ると、日が差して外は少し明るくなっていた。道路には誰も歩いていない。
 日笠は外出前に、この窓から外の様子を見ていたことを思い出した。
 待ち合わせの時間が近づいて、歩いて来る人影が見えたので、それが川喜田だと分かった。例会の際に見た覚えのあるコートを身に着けていたからだった。
 初詣に行きたいと思い立ったのは年の瀬の事だった。奨励会の頃、誰が誘っても遊びに行かなかった川喜田が、果たして乗ってくれるだろうかと思った。合格祈願を口実に誘ってみると、意外にも即答で断られなかったので押し切って約束を取り付けた。
 その日から年が明けるのが待ち遠しかった。
 お守りを渡そうと思って社務所で見ていたら、学業成就しかなくて、合格祈願はこれでいいのか尋ねていたら、時間がかかってしまったのを思い出した。
 先ほど別れてからも川喜田の後ろ姿を見ていたのは、ほとんど習慣のようなものだった。
 彼の背中が振り返ってこちらを見た。
 その場面を思い出すと、鼓動が高まり、身体の内側から温かいものが込み上げてきた。日笠の口元は笑みを浮かべていた。
 今頃、川喜田さん何してるかな。
 きっと帰り道も勉強を続けているのだろうと思ったら、このままではいられなくなって、日笠は机上のパソコンに目をやった。
 祖父達のように、今年の初白星を飾ろうか。そう思い立ってパソコンの電源を入れた。将棋ソフトの立ち上げを待っていると階下から母親の声がした。
「晴、お汁粉作ったけど食べない?」