押さえた親指の下には、まだ少し痛みが残っていた。
片方の指で採血した箇所を押さえているので、クリアファイルに入った問診票をもて余す。
そこには『日笠晴』と氏名が記されていた。
座っているベンチの上にファイルを置こうとして、手元が狂い滑り落としてしまった。
「落ちましたよ。大丈夫ですか?……」
日笠がすみませんと言って顔を上げると、そこには白衣の男性が立っていた。ファイルを手にしたまま、驚いたような表情で固まっている。
しかし日笠もその顔を見た瞬間、身動きができなくなった。それは、思いがけない再会だった。
「……川喜田さん」
「日笠、くん」
その声は奨励会に在籍していた時と変わらないと思った。川喜田はワイシャツの上から白衣を身に着け、ポケットから聴診器の管が少し覗いている。IDカードを首から下げていて、その赤い紐が白衣に映えていた。もう片方の手にはペンを挟み込んだバインダーを持っていた。
川喜田はハッとしたようにクリアファイルを返そうとしたが、手の塞がった様子に思い直したのだろう、脇にファイルを置いてくれた。
「ありがとうございます」
川喜田はうなずいて、隣に腰かけた。
「久しぶりだね」
「お久しぶりです」
少し言いよどむ様子を見せて、川喜田は控えめな口調で問いかけた。
「どこか具合でも悪いのか?」
「いえ、定期検診を受けに来ただけなんで。血液検査したとこです」
「そうなんだ」
川喜田はホッとしたように息をついた。押さえていた親指をそっと外してみると、もう血が止まっていた。日笠は採血室で貰っていた小さな絆創膏をそこに貼った。
「川喜田さん、医者になったんですね」
「いや、この病院に実習に来てるんだ」
川喜田は名札を示してみせた。よく見ると、そこには川喜田の顔写真と、氏名や大学名が記されていた。
「そうなんですか? もう医者みたいじゃないですか」
「そんなこと……僕が医者を目指してるの知ってたんだ」
「あ、奨励会で何となく聞いたんですよ」
日笠は曖昧な返答をした。しかし実のところ、これは川喜田の師匠である飯田に聞いた話だった。
三段リーグでの川喜田との対局後、日笠は病気治療のため奨励会を休会した。決断したならすぐにでも手術を受けた方がいいという主治医の勧めもあり、川喜田が退会の挨拶をする場には立ち会えなかった。
手術が成功し、治療生活を経て、日笠は奨励会に復帰した。それには数年の歳月を要したが、日笠の将棋への情熱は全く変わっていなかった。それどころか、あの日を境に、ますます強まっていた。
川喜田の消息が気になっていた日笠は、思い切って飯田将棋道場を訪れた。
「珍しいお客さんだね。もちろん対局は歓迎だけど……そういう用じゃないみたいだね」
飯田は面食らいながらも、気さくな様子で迎え入れてくれた。
三段リーグでの対局、すなわち川喜田にとっては奨励会の退会を決定されたその時のことは、師匠である飯田の耳にも入っていたようだ。
川喜田のことを尋ねると、飯田は一つずつ話をしてくれた。川喜田との出会いから始まり、医者の家に生まれながら、その道を捨てて棋士になりたいと言ってきたこと。
そして今、川喜田はもう一度医者を志し、医大で勉強中であること。
どれも日笠は知らない話ばかりだった。ずっと見ていたとはいえ、川喜田とあまり話をしたことがなかったから、無理もない。
誰でも何らかの思いを抱えて棋士を志し、奨励会でしのぎを削っていることは分かっている。
けれど日笠はその話を聞いて初めて、川喜田の将棋の中にあった、彼が抱えていたものが分かった気がした。
別れ際、飯田は個人的な気持ちだけど、と前置きをしてこう告げた。
「君の活躍を祈ってるよ。いつか利人にも日笠くんの姿を見せてあげて欲しいな」
穏やかな口調の中に強い思いがあった。川喜田が十九歳で入会してきたあの日、本当にプロを目指す気なのかと疑ったが、本人も師匠も本気だったのだ。
勝負の結果とはいえ、その夢に引導を渡したのは紛れもなく自分だった。そのことを日笠は改めて胸に刻み、ただ「はい」と応えて、しっかりとうなずいた。
そんな出来事を思い出し、日笠は我が身を振り返る。
「日笠くんだって、プロになったよね」
突然の川喜田の言葉に驚いて顔を上げた。
「今さらだけど、おめでとう」
「あ、ありがとうございます……見ててくれたんですか」
「?……ああ」
川喜田は不思議そうに視線を留め、日笠の顔を見返した。いたたまれずに思わず視線を外してしまった。
川喜田のことを聞きに行ってから、日笠は三段リーグを突破し晴れてプロになった。
しかし、当然のことながらプロの世界は全員が実力者だ。日笠より年下で、なおかつプロ経験の豊富な棋士などいくらでもいる。そんな中で地道に勝ち星を重ね、昇段していくしかないのだ。
今の日笠は、プロとしてこれといった成果を上げられてはいなかった。そんな状況で川喜田と再会してしまったことに、じわじわと気恥ずかしさが込み上げてきた。
――本当は、もっと相応しい自分になってから会いたかったのにな。
そう思うと、こうして川喜田に相対しているのが不甲斐なく思えた。
日笠はうつむいて、小さくため息をついた。意識してやったことではなかった。気配を感じて視線を移すと、川喜田が顔を覗きこむようにして、こちらを見ていた。
「もしかして……気分が悪いの?」
「え?」
日笠は顔を上げた。急に首を動かしたので勢いがついてしまった。そのまま、少し大げさなくらい首を横に振った。
「いえ、大丈夫です」
「そうか……」
語尾を濁すようにして、相手が自分の様子をさりげなく、しかし観察し判断しようとしているのが分かる。何度も病院に訪れている日笠は、医療従事者がそうやって業務に当たることを知っていた。
心配をかけてしまった。そう思うと心臓が一際、大きく波打つのを感じた。
川喜田は医者の卵で、だからこそ自分の体調を案じてくれている。
たとえ実習生といっても、白衣に袖を通してそんな風に問われたら、既に本当の医者に尋ねられているようだと日笠は感じた。
「本当に、大丈夫ですから」
かえってわざとらしくならないように、日笠は少し笑みを浮かべて念を押した。病気を経験した身だからこそ、こんな時にどう行動すればいいかは心得ていた。
川喜田はその様子に納得したのか、小さく頷いた。
「もし体調が悪かったら、この病院の人に声かけて」
「はい」
「このあと向こうの棟で実習なんだ。話せてよかった」
川喜田は立ち上がり、柔らかく微笑んだ。
「将棋頑張ってね、日笠くん」
川喜田の表情はとても爽やかなものだった。そこには光が差していた。日笠は思わず背筋を伸ばし、彼の言葉に応えた。
「はい! 川喜田さんも、勉強頑張って下さい」
「ああ。……お大事に」
去っていく白衣の後ろ姿から、目を離さずにいた。実習生と言っても、既に医者になっているのも同然だとやはり日笠には思えた。白衣姿も、その心遣いも、そして板についたような去り際の言葉も。
いつか、棋士として着物に袖を通せるほどになったら、あの後ろ姿に並んで立つことができるだろうか。
次に会う時は、絶対にそれに相応しい自分でいよう。
そう決意を新たにしながら、日笠は川喜田の姿を見えなくなるまで見送った。
一ヶ月後――
「日笠くん。今日はどうしたの?」
「川喜田さん! いえ、この間の結果聞きに来て……」
またもや顔を合わせてしまう道半ばの二人がいた。