謎の川喜田さん

高校生日笠が川喜田の事を考えたり、本屋で当人と会う話。
日笠の一人称です。

初出:2019/11/22(2684文字)
あとがき

 高校の帰りに本屋へ寄った。将棋のコーナーが充実していると、昔爺さんが教えてくれた本屋だ。平積みになっている雑誌の表紙は、あの中学生で四段になった奴の写真だった。既に昇段して、今は四段どころかさらに上にいる。とても誇らしげな表情に見えて、俺はそこから目を背けた。
 棚に並んでいる背表紙に目を向けると、詰め将棋の本があるのを見つけて、ふとこの間の例会で聞いた会話を思い出した。

「気分転換に詰め将棋!?」
「変かな?」
「いや変じゃないと思いますけど……将棋の勉強の合間に詰め将棋って……」
 それ、全部将棋じゃん。

 川喜田さんが休憩時間も将棋の勉強をしているのは、もう見慣れた光景だった。この間は、将棋の本を鞄にしまったと思ったら、取り出したのは詰め将棋が載っている紙だった。問題集のページをコピーしたものらしい。しかもやたら手数のかかる問題で、川喜田さんと話していた人は感心したような呆れたような顔で、ぼやいていた。

 川喜田さんは謎が多い人だ。どうして十九歳で奨励会に入ってきたのか。師匠はどうやって決めたのか。いつから、どうして将棋を始めたのか。全部謎だ。本人に聞いたこともなかった。いつも何かしら将棋の勉強をしているから、取りつく島もないっていうか。詰め将棋の事で話していた人は研究会のメンバーで、何か用事があったらしく勉強中の川喜田さんに声をかけたら、やっと顔を上げた。そんな調子だから、何でもない話をいきなり振ろうなんて思えない。それに十九歳って微妙に年上だし、俺達高校生からしたらちょっと近寄りがたい。年上の後輩って、どういう風に接していいのか分からないし。

 俺はそんな事を考えながら、指で本の背表紙を引き出した。
 詰め将棋専門雑誌が出している問題集だ。将棋の雑誌にも広告が載っているので、名前くらいは知っていた。かなり昔からある雑誌で、俺の爺さんも知っていたくらいだ。けどマニアックだから、雑誌本体が置いてあるのは将棋会館の売店くらいだった。
『傑作問題集』と表紙に書かれた本を手に取って、パラパラとめくってみた。詰め将棋がひたすら載っている。俺、こういうのパス。詰め将棋やるくらいなら誰かと指したい。
 でも、川喜田さんはこういうのやってるのかと考えた。話のネタになるかもしれない。難易度の高い問題をこれ解けますかって振ってみようか。そう思ったけどすぐ止めた。こいつこんなのも解けないのかって思われるのもつまらない。
 最後までめくったけど、全部詰め将棋だった。俺はその本を棚に戻して、他に使えそうな本がないか背表紙を見ていると、後ろから急に声が聞こえた。

「日笠くん? こんにちは」
 その顔を見て驚いた。
「あっ川喜田さん、こんにちは」
 え? なんで川喜田さんが?
 とっさに挨拶を返したけど、頭の中は驚きと疑問で一杯だった。川喜田さんは例会で見るのと同じように、スーツ姿でネクタイを締めていた。将棋会館に行ったなら、売店に本も充実しているのでそこで買うはずだ。川喜田さんの師匠の道場にでも行った帰りだろうか。質問しようとしたら先に向こうから質問を投げかけられた。
「何か買いたい本があるの?」
「いえ、見てただけなんで」
 曖昧に答えながら、さりげない感じで隣のスポーツ誌コーナーに移動した。そこで適当に目についた雑誌を取って、顔を隠すように広げた。テニスの雑誌みたいで、適当に開いたページには、トサカみたいな特徴のある髪型の選手が載っていた。

 どうして川喜田さんがここに来るんだよ。
 将棋のコーナーが充実してるって、誰かに教えてもらったのか? 研究会の人か? それとも……
 思いかけて俺は気付いた。今ってチャンスじゃん。いつもはずーっと勉強してるから声かけづらいけど、今なら自然に話ができるかもしれない。
 でも、一回話切っちゃったからもう一回話しかけるの変か?
 迷いは一瞬で吹っ切れた。変って思われてもいいや。俺は少しだけ考えて、『川喜田さんは何の本探しに来たんですか』と声をかけようとした。
 その瞬間。川喜田さんは何か見つけたらしく、棚に入っていた本を抜いた。
 あ、それさっき俺が見てたやつ。
 川喜田さんは『傑作問題集』と書いてある表紙と裏表紙に軽く目をやると、すぐにレジに向かった。顔を本で隠しながら動きを追うと、川喜田さんはレジで会計を済ませて問題集が入った紙袋を持って、足早に店を出ていった。

 俺はしばらくの間、テニスの雑誌を広げたままその場に立ち尽くしていた。
 あんた最初から、これだけが目的だったのかよ。
 買いたい本は始めから決まっていて、本だけ買ってすぐ帰ろうと思ってたら俺がいたから、探りを入れたってわけか。
 俺はさっきまでの川喜田さんの様子や言葉を思い出した。目的以外には目もくれず、少しの時間も惜しまず、帰ってからもまた将棋の研究をしているんだろう。いや、帰り道の電車の中でもうやってるかも。吊り革につかまって本を読んでいる川喜田さんがすぐに想像できてしまって、考えるのを止めた。

 俺は将棋のコーナーを離れて店内を一通り回った。色々な雑誌や本が並んでいる。高校生向けのもあった。
 ここ半年くらいカラオケに行ったり、普通の高校生がする遊びは一通りやり尽くした。
 けど、将棋より面白い事なんて無かった。
 四歳ぐらいの時に爺さんから将棋を教わって、楽しくてハマって、プロになった姿を爺さんに見せるのが俺の夢だって思い出した。
 それと、爺さんとそのライバルの爺さんみたいに、俺も爺さんになっても将棋を指していたいって。

 川喜田さんは謎が多い人だ。分かったのは詰め将棋が人並み外れて好きな事くらい。
 どうして川喜田さんがプロを目指そうと思ったのか、その夢の形を俺は知らない。
 最初は、十九歳で奨励会に入会して何ができるって思って、好奇心でその様子を見ていた。でも、俺より三歳も年上なのに努力を続ける姿から、いつの間にか目が離せなくなっていて、俺も頑張ってみようって思えた。
 最近は例会でも真剣に指すようになったし、奨励会の連中には言ってないけど、家で研究もしてる。
 奨励会の中では俺の方が先輩だから、負けてられない。

 将棋のコーナーに戻ると、もう一度本棚に目を通して、目ぼしい戦術の本を手に取った。それから、平積みされていたあの将棋雑誌と目を合わせた。悔しいけど、まずは情報がなきゃ話にならない。
 俺はその雑誌も手に取って、会計してすぐに本屋を出た。