以下、短文です。
雨が降るのを察知する日笠と、見守る川喜田の話。
「もうすぐ、雨が降りそうですね」
日笠は窓の外を見ながら、小さく声を発した。ビルの上階にある将棋サロンから見る空は、ここへ来た時と変わらず、曇っているように見えた。
「そうか?」
川喜田は朝の天気予報を思い出す。曇りで、所により雨という予報だったので、念のために折り畳み傘を鞄に入れてきた。
日笠が誘ってくれたこの将棋サロンは、ワンフロアに対局スペースが整然と並んでいる。現に、他のスペースでは複数の客が、勝負に熱中していた。あちこちからパチリ、パチリと駒の音が響いている。
「今日はこのくらいにしましょう」
日笠は、二人の間にある盤上の駒を片付け始めた。川喜田は意外に思った。
「え、もういいのか? いつもならもう一局くらい……」
「そうしたいのは山々なんですけどね。指してたら降ってきますよ」
なんで、と言いかけたのを遮るように、判るんですよと笑みを浮かべる。
「雨が降る前って、手術した痕が痛むんで」
服の上から、その痕があるであろう箇所を手で押さえた。川喜田はハッと息を呑んだ。
「痛いのか? 大丈夫?」
日笠は手を振りながら言葉を濁した。
「あー、痛いんですけど『痛いな』くらいでやり過ごせるんで、大丈夫です」
「痛いんじゃないか……」
思わずこぼすと、日笠は笑みのまま応じる。
「大丈夫ですよ。雨が降り始めれば、自然と治まってるので」
下を向いて駒を整理しながら、こちらを見ずに言葉を発した。
「だから、さっさと片付けて帰りましょう」
ああ、と応じて、川喜田も自陣の駒に手をつけた。しばらく日笠の様子を気にしていたが、症状を自覚して対処できているのだから、心配し過ぎるのも違うだろうと思った。大学で医学を勉強すればするほど、そのさじ加減が難しいのだと痛感する。
最後に川喜田が数を確認して、備え付けの木箱に駒を戻した。
*
電車に乗って家に帰り着くと間もなく、本当に雨が降ってきた。川喜田が自室の窓につたう雨の雫を眺めていると、携帯にメッセージが届いた。
『俺が言った通りでしたね』
文章の後に傘の絵文字が付いている。日笠もこの雨を、家の中から見ているのだろう。彼の得意気な顔が、ガラス越しに映っているように思えた。そんな想像をして、川喜田も思わず笑みがこぼれた。
返事を入力している最中に、もう一つメッセージが届く。
『傷も少しは役に立つでしょ?』
はたと指を止めた。「役に立つ」、その言葉を思わず何度か視線でなぞってしまった。
「人の役に立つ人間になれ」幼少の頃から父に言われていた言葉を思い返す。
けれども、いつ何が「役に立つ」かは、誰にも決められない。その人次第だ。
川喜田はあの日の対局以来、そう思えるようになっていた。
『そうだな。助かったよ』
書きかけの返事を直して送信した。外はあいにくの天気だ。雨の音が絶えず聞こえてくる。
川喜田は椅子に腰かけ、教科書とノートを開くと、明日の予習を始めた。
今ごろは日笠の傷の痛みもきっと、治まっているだろう。
■
元々は、日笠が傘を持ってなくて川喜田に入れてもらうみたいなのを妄想していた。
でも、日笠に手術の痕があるんだろうから、雨が降るのを分かってたら面白いんじゃないか。
そう思いついて書いた話です。
傷の場所をぼかせるのは文章のいいところ…(笑)