グッドラック

川喜田と日笠が初詣に行く話。
川喜田が医大受験生、日笠は自宅療養中という設定です。

初出:2019/01/28 (4504文字)
あとがき

「どこへ行くんだ」
「友達と合格祈願の初詣に行ってきます」

 父はそれ以上追及してこなかった。
 玄関から出ると、冷たい風が一つ吹いた。暖かい服装をしてきてよかったと思った。その首にはマフラーが、隙間を埋めるようにきっちりと巻かれ、コートのボタンも全て留めてあった。
 息を吐くと鼻まで覆ったマスクの中に呼気がこもって、そこだけはわずかに暖かくなった。
 空は曇っていて、朝から気温の低い日だった。
 今日は元日である。
 川喜田利人は人通りの少ない静かな街中を歩いていく。
 先ほど『友達』と言った人物――日笠晴と約束をしていたのだ。

 年末に日笠から、初詣の誘いがあった。だが、向こうは退院後の療養中、自身も受験生という立場だ。気持ちは嬉しいが、この時季に人混みに行くのは感染のリスクが高すぎると返答した。

<じゃあ、人の少ない神社ならいいですか?

 日笠は自宅の近所に小さな神社があるからと食い下がってきた。
 アプリケーションでのやりとりの結果、日笠の自宅まで川喜田が出向き、そこから近所の神社へ初詣に行くことになった。
 日笠が自宅の場所を送信してくれていたので、川喜田は地図が表示された携帯を頼りに、その家の前にやってきた。
 表札を確認し、メッセージを送ろうと携帯を操作していると玄関のドアが開いて、日笠が出てきた。
「明けましておめでとうございます」
 突然の登場に視線を止める。日笠がごく簡単に説明した。
「窓から見えたんで。待ってましたよ」
 川喜田は改めてもう一度姿勢を正し、相手の言葉に応えた。
「明けましておめでとう」
 日笠に向かって一礼をした。すると日笠も同じように礼を返してきた。
「今年もよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 もう一度礼をして顔を上げると、日笠と目が合った。厚手のコートに加えて、マスクや帽子やマフラーで覆われていて、顔色を判断するのが難しい。だが、立ち姿から見て体調は悪くなさそうだ。マスクで覆われているものの、声の調子でもそれが分かって川喜田は安心した。
「やっぱちょっと着すぎですか?」
 日笠はその視線を別の意味に捉えたようだ。マスクで表情がはっきりと解らなかったが、少し照れたように笑っている。
「いや……今日は寒いからちょうどいいよ」
「よかった。川喜田さんが暖かい服装でって言ったから、着こみましたよ」
 そういえば、やりとりの中でそんなメッセージを送信した気がする。
 手元を見れば、日笠はニットの手袋も身に着けていた。これなら冷気の入る隙はないだろう。川喜田は安心してうなずいて見せた。
「じゃ、行きましょうか。こっちです」
 先に歩き出した日笠に並んで川喜田も足を進めた。
 神社までは歩いて七、八分だという。年末年始にどうやって過ごしているかという話になって、日笠は祖父と、そのライバルである近所の老人の話をする。
「ウチの爺さんたち、正月にはどっちかの家で元日から指すのが定番で。毎年交互に家に来たり、向こうに行ったりしてたんで、俺も一緒に参加してました。両方とも今年の初白星がかかってますから、めっちゃ張り切ってて。お屠蘇をひっかけてから来るから二人ともほろ酔いで、いつにも増して張り合ってて。だけど二人がめっちゃ楽しそうだったから、俺もすごく楽しかったんですよ。お年玉貰ったり、俺も爺さんたちと対決したりしてました」
 日笠は楽しそうに、そして懐かしそうにそんな話をした。相槌を打ちながら、川喜田は家を出る時の言葉について考える。
 日笠は、『友達』なのだろうか?
 第三者に説明するなら、そう表現するしかないのは分かっていた。だが、とっさに出た言葉とはいえ、玄関を出て日笠の家の前に着くまでの道程で、受験の参考書に目を落としながら、頭の片隅でその疑問を考え続けていた。
 奨励会在籍中は、日笠とそんなに親しい仲ではなかった。三段リーグでの対局後、彼の方から連絡先を聞いてきて、携帯でのやりとりが始まった。日笠の入院中に見舞いに出向き、詰め将棋の本を指し入れたこともあった。こうして直接会ったのは退院以来のことだった。
 今、本人を目の前にして分かるのは、彼の生き生きとした様子を嬉しく感じている自分がいることだった。
 退院したとはいえ、日笠の顔にはまだやつれが残っているし、着込んではいても体重が完全に戻っていないのは見て取れた。
 でも、楽しそうに話す口調から、以前の明るさが戻ってきたように思えて、川喜田はそれを心から嬉しく思っていた。
 しかし、それは友情というより、『病人』や『患者』に対する労りの気持ちだと川喜田は自覚していた。
 まだ医者になってもいない、医大にすら入学していない段階で患者のように思うのは分不相応かもしれない。
 でも、夏の対局が終わった時、日笠に生きてほしいと心底願った。
 これまでも家の病院患者に対して漠然とそう思っていた。でも、一個人に対してそんな風に身に沁みて思えたのは初めてだったのだ。
 その思いが今、医者への道を歩み始めた自分を支えている。
 今日、日笠の誘いを受けたのも、頼みを聞いてやりたいような気持ちだったことは否定できない。
 彼が外出したいのなら、体調に障らない程度にそうした方が快復には良いのだと川喜田は思った。こんなに寒い季節でなかったら、変に気を揉むこともなかったのだが。
 受験生という立場にはクリスマスも正月もない。夏から受験勉強を始めた川喜田には、充分な時間があるわけではない。本来なら元日も勉強をしているのが当然だ。出かける時の父の言葉も言外にそう言っているのを解っていた。
 しかし心のどこかで、初詣くらいは済ませたいという気持ちがあったのかもしれない。
 棋士の夢を諦めて、医者への道を目指すにあたり、願いを言葉にし改めて確かめ、これからの試験への励みにしたい。そんな思いがあったのも事実だった。
 一方で、日笠は確実に快方に向かっていて、いつまでも病人ではないのだと思った。
 では、これからどうやって『友達』になれるのだろう?
「今思い出してもめっちゃ楽しい正月でしたよ」
 思考は現実に戻された。マスクに覆われているとはいえ、日笠の声は弾んでいる。だから川喜田もマスク越しに自然と微笑んでいた。
 日笠は前方を見やって、石でできた灰色の鳥居に目をやった。
「あ、着きましたよ」
 鳥居をくぐる日笠の後に着いていった。
 神社には数匹の鳩が地面をつつきながら歩いていた。広場のようになった境内で、子供が羽子板をついて遊んでいる。どうやら伝統に忠実に遊んでいるようで、二人とも顔には墨が塗られ、しかし楽しそうに笑っていた。元旦だからなのだろう、他にも参拝客が何組か訪れていた。
 日笠は社の前に歩いていく。川喜田は軽く辺りを確認したが、手水舎は見当たらなかった。
 数段の階段を上り、川喜田は日笠と拝殿の前に立った。頭上には真新しい注連縄と紙垂が提げられていた。
 まず賽銭を入れると、日笠が綱を引き、カラカラと鳴る鈴の音が境内に響いた。それから二人は礼をすると、二つ拍手をしてから手を合わせた。
 これからの決意と願い事をして顔を上げる。日笠も願い事が済んだようで目が合った。
「おみくじ引きませんか」
「ああ」
 境内の片隅にある社務所に日笠は目をやった。二人は窓口で声をかけて、おみくじを引いた。他にも並んでいる客がいたため、先に引いた川喜田は端に避けて、その紙を広げ結果を確かめた。その中で、試験と書かれた項目がやはり目に留まった。
『人事を尽くして春を待つ』
 とそこには書かれていた。
 その言葉が印象に残って、その文字を視線でなぞりながら何度か頭の中で繰り返し、ふと日笠の方を見ると、まだ社務所の前にいた。
 どうしたのだろう、もしかしたらくじの結果が悪かったのだろうか。何と声をかけようかと思っていると、日笠が振り返って、こちらに歩いてきた。神妙な様子で、手を後ろに組んでいた。何を見せられるのだろうか、川喜田は少し身構えた。目が合うと日笠は口を開いた。
「川喜田さんなら絶対大丈夫だって思ってますけど……」
 日笠が手を前に出すと、そこには紺色のお守りが握られていた。
「これ、持ってて下さい!」
 日笠がその手を前に差し出した。川喜田はその文字をじっと見つめた。『学業成就』と書かれていた。
 予期しなかった事態にしばらく何も言えずにいたが、思い直して川喜田は手を伸ばし、そのお守りを受け取った。
「ありがとう」
 そう伝えると日笠の緊張した表情も緩んだのが分かった。
「いい結果が報告できるように、頑張るよ」
「川喜田さんなら絶対大丈夫ですよ!」
 その言葉にうなずいて、川喜田は改めてそのお守りを見た。
 絶対合格しよう。心の中で決意し、川喜田はそれを丁寧に鞄の中に入れた。
「それで、川喜田さん」
 日笠は少し言いよどむように、名前を呼んだ。それに目を合わせて応えると、日笠はこう続けた。
「春になって、時間ができたら、また指しましょう」
――ああ、そうか。将棋を指せばよかったのか。
 疑問の答えが、やっと見つかったような気がした。
 日笠に対する思いが、今は友情というより病人への労りであったとしても。
 それでも自分たちの間には将棋があって、将棋を指せば、この関係は繋がっている。
「それまでには、俺ももっと体調良くして、今より元気になってますから」
 日笠が、はにかんだように笑った。
「ああ。楽しみにしてる」
「はい!」
 そして、二人は神社を後にした。帰り道も正月のことなどを話しながら、あっという間に日笠の家の前に着いた。
「結果分かったら、また教えて下さいね」
「ああ」
 名残惜しい気持ちが芽生えているのに気づいていた。でも、寒空の下で日笠をこれ以上引き留めるのは身体に障ると思った。
「それじゃ、ここで」
「ああ、またな」
 もう一度日笠の顔を見ると、彼は笑って見せた。その表情にほっとして、川喜田は踵を返した。

 歩き始めると、雲の切れ間から青空が見えた。
 帰りの交通機関の中で、参考書のどの範囲を読むか考えた。家に着いたら、すぐにまた机に向かおうと決めていた。
 太陽が顔を出して周囲は明るくなった。その暖かさを全身に感じながら、川喜田は足を進める。
 そういえば奨励会の誰かと出かけたのは初めてだった、と気がついた。
 あの頃は将棋の勉強が優先で、奨励会員からの誘いもすべて断っていた。たとえ出かけたとしても、時間が無駄になると思っていたかもしれない。
 でも、今はそう思えなかった。
 川喜田は鞄の中にある大切なものの存在を胸に刻みながら、しっかりと持ち直した。

 ふと、足を止めて振り返った。
 もう日笠は家の中に入っているだろう。
 そう思ったのだが。

 そこにはまだ日笠が立っていて、こちらを見ていた。