例会がクリスマスに被り、駅で偶然会った川喜田(20歳)に将棋の話をしようとする日笠(高2)の話です。
日笠の友人達もちょっとだけ出てるのでタグをつけています。
※21歳の年齢制限は実際にある規定ですが、この話で川喜田が昇段していない等の設定は、全て私の捏造です。
初出:2019/12/24(3539字)
あとがき
例会日がクリスマスに被った。
終了後、日笠は将棋会館の出入口でいつもの後ろ姿に目をやった。
会員達に声を掛けられ、しかし丁重に頭を下げて断っているようだった。川喜田は、例会が終わった後に誰に誘われても遊びに行くことはなかった。
それはたとえ今夜であっても変わりない。
やっぱりね、と日笠は思いながら友人達の会話に入った。クリスマスだから、この後いつものメンバーでどこか遊びに行くつもりだった。
遊びに遊んでいたあの頃よりは、三人とも真剣に将棋に向き合うようになっていたが、今日くらいは羽目を外してもいいだろう、というのが暗黙のうちの認識だった。
その時友人の一人が、電源を入れたスマートフォンの画面を見ながら顔を歪めた。
「どうした?」
「雪で電車が止まるかもしれないから、帰って来いってさ」
それは保護者からのメッセージらしい。
確かに外では雪が舞っていて、地面に積もるまでは行かないが、周囲はうっすらと白くなっている。
この降りでは本当に積もるかもしれない。そうこうしているうちに、眼鏡の友人にも、自分にも似たようなメッセージが送られてきた。母親からはご丁寧に、『ケーキも買ってあるよ』と絵文字付きで添えられていた。
どこの親も考えることは同じだな。そう笑いながら友人たちと別れた。日笠はもう少しだけ、今日のこの街の雰囲気を楽しんでいられたらよかったのにと思った。
駅に着くと、雪は相変わらず暗い空にちらちらと舞っていた。改札をくぐり、ホームに降りると、電車を待つ人でそれなりに混みあっていた。赤と緑に彩られたプレゼントの袋を持っている人も何人か見かけた。皆どことなくそわそわしている。それは今日の雰囲気に浮かされているせいなのかと思った。その中に見知った後ろ姿が見えた。
あれ、と思って自分の反対側のホームにいるその人に声をかけてみる。
「川喜田さん、お疲れ様です」
川喜田はちょっと驚いたように日笠の顔を見た。例会の時はしていなかったマスクを掛けて、片手に小さなノートを持っていた。その表紙に、丁寧な文字で『将棋』と書いてあった。ここだけは今日の日に無縁、といった佇まいだった。
「日笠くん。お疲れ様」
「どうしたんですか? 先に帰ってましたよね」
「電車が遅れてるみたいなんだ」
そう言って川喜田は、電車が来る予定の方角を見やった。
「やっぱり雪の影響ですか」
「そうみたいだね」
会話が途切れて、白くなった息だけが宙を舞った。もう一度日笠は川喜田に声をかけた。
「寒いですね」
「ああ、寒いね」
川喜田はそう答えて手元のノートに目をやった。
会話が続かない。しかし日笠は多少の距離を取って川喜田の側に立ったまま、ちらちらと落ちてくる雪を見ていた。日笠が乗る電車は隣のホームに来る予定だったが、まだ来る気配はなかった。
話題はないかと、日笠は考えた。将棋の話をすればいいと、漠然とは分かっていた。でもいきなりそのノートの中身について聞くのは少しはばかられた。日笠は川喜田とあまり話をしたことがなかったからだ。
今日の勝敗? それはデリケートな話題だ。よほど親しい関係だとか、研究会の仲間でもなければ、まず勝敗の事は触れない。
日笠は今年最後の例会を勝ちで締めくくることができた。だから内心すがすがしい気持ちで将棋会館の部屋を出た。川喜田さんはどうだろう。最初の頃は密かに勝敗を確認していたこともあったが、今はそれをやめた。他人の事を気にしている暇はないと気付いたからだ。自分の事だけを考え、勝って上に行くしかない。たとえそれで誰かを蹴落としたとしても。
奨励会はそういう場所だ。
それに連敗していても、川喜田は日々の努力を決して怠ることはなかった。そんな姿を見ていたら、一喜一憂しているのが馬鹿らしくなってしまった。だから今日の結果がどうだったのかは知らない。
川喜田が十九歳で奨励会に入会してきたあの日から、一年以上が過ぎていた。来年は二十一歳の誕生日を迎えることになるはずだ。川喜田さんはどうなるんだろうと日笠は考えた。奨励会には二つの年齢制限がある。そのうちの一つは、二十一歳の誕生日までに初段になれなければ退会、というものだった。
でも川喜田さんならきっと、そう日笠は思っていた。あれだけの努力を積み重ねている人が、こんなところで退会になるはずがない。そう信じていたいという自分の気持ちも混じっているのは自覚していた。
日笠は高校二年生になり、先日は懇談会があった。希望する進路は、当然このまま奨励会員を続け、プロになることで、それについては両親も了承してくれている。だが教師からは予想通り、奨励会に所属しながら進学をしないかと勧められた。教師の立場からすれば、人生に保険を掛けておこうとするのは当然の事だろう。
でも、学校生活と両立できるほど奨励会は甘い場所ではない事も分かっている。保険を掛けておいた方がいいのか、あるいは進学しない事をどう説得すればいいのか。少し悩んでいた。
日笠は所在無げにちらちらと舞う雪を見ていた。すると不意に風が吹いて、その冷気を吸い込んでしまった。
日笠はくしゃみをした。その音は、ホームの中にかなり大きく響いたように思えた。
「大丈夫?」
川喜田が横目で日笠の方を見ていた。
「あ、大丈夫です」
口元に手をかざしたまま、日笠はわずかに顔を背けた。
うわ、かっこ悪い。気まずく思いながら川喜田を横目に見ると、コートに加えてマフラーを巻き、手袋をしてマスクをかけて、完全防備の服装だった。準備がいいな、と日笠は心の中で呟いた。
外の気温が随分冷えていることにも気づいた。でもマフラーも手袋も持っていない。日笠は両手をコートのポケットに突っ込んで、身体をちぢこめるようにして寒さをしのいだ。
本当は、駅の売店に行けば手袋もマフラーも、もちろんマスクも置いてあるかもしれない。
だが、日笠はここにいたかった。
ここにいて、川喜田の側に立っていたかった。
何か話をしてみたかった。奨励会では馴れ合いは無用と分かってはいてもだ。
将棋の話が何かないかと日笠は考えた。例会の勝敗や、流行している戦術のようなシビアな話ではなく、もっと誰でも明るい気持ちになれるような話が。
ふと、昔の思い出が頭をよぎる。小学生の将棋大会に出た時の事だ。そこには話した事もない子供が大勢いた。
『なんで将棋始めたの?』
でも、そう一言聞けば相手の緊張もほぐれて話が弾んだ。日笠も祖父の話などをして、一緒に笑い合った。いっぺんに友達になれたのだ。
黒い空に雪が舞っている。魔法のようだと思っていたその言葉を、日笠は川喜田にも投げかけてみようと思った。
――川喜田さんて、どうして将棋始めたんですか?
日笠がそう口を開きかけた時、ホームにアナウンスが響いた。遅れている電車が間もなく到着するらしい。日笠は話を切り出すタイミングを失った。アナウンス通り、ほどなく電車が入ってきた。
川喜田は電車に乗り込んでから振り向いた。
「乗らないの?」
「俺、隣のホームなので」
マスク越しでも不思議そうな顔をしたのが分かった。日笠はごまかすように続けた。
「お疲れ様でした」
話を切り出せなかった名残を引きずっていたが、しかしそれはおくびにも出さなかった。
「お疲れ様」
そう言葉を切って、川喜田は少し迷った、ように見えた。しかしすぐにこう続けた。
「……よいお年を」
この挨拶は気が早いなと思ったのかもしれない。
しかし日笠はハッとして『よいお年を!』と応えた。
その瞬間、まるでドラマのワンシーンのように、ホームにベルが鳴り響いた。ドアが閉まり、電車が走り出した。
川喜田が車両奥に進んで、またノートを広げるのが見えた。日笠は電車が走り去っていくまで、川喜田の姿が見えなくなるまで、じっと見ていた。
こういう人なんだよな。
先ほどの少し気の早い挨拶を思い返して、日笠は少し笑みを浮かべた。
社交辞令だと分かってはいるが、奨励会の仲間として認められているように思えたのだ。馴れ合いは無用だし、いつ居なくなるか分からない。でも奨励会に所属している限り、次の例会でまた顔を合わせ、対局する事もできる。
雪は依然として舞っていて、外の空気は冷たい。けれど日笠の胸中は、その降って来る雪のように、まっさらな気持ちになっていた。
また来年、例会で会いましょう。
心の内で呼びかけると、日笠は自分の乗る電車を待つようにホームの向こう側を見つめた。