GOOD DAY

連作短編② 足湯に入った話のその後、帰り道の話。(2955文字)
単独でも読めます。

 左肩に重さを感じて、川喜田は隣に目を向けた。眠ってしまった日笠が、電車の揺れと一緒に、肩にもたれかかっていた。
「日笠……」
 突然のことに驚いて、思わず呼びかけたが、すぐ止めた。
 条件反射のように、まず顔色と手の甲の肌色に目をやる。様子を観察したが、体調が悪くなったわけではないようだ。
 丸半日、日笠と外で指していたから疲れが出たのだろう。寝かせておこうと思って、川喜田は気配を潜めた。
 帰りの電車に乗ってしばらくは、日笠が今日の事や、将棋の話や、最近の出来事を話していた。いつものように切れ間なく続く話に相槌を打っていた。
 会話がふと途切れて、どうしたのだろうと隣を見ると、日笠は首を傾けて、うとうとしていた。

 暖かな晴天の日だった。すっかり春になって、瑞々しい緑は目に眩しいくらいだった。日笠がここで指したいと言い出して、野外のベンチに腰かけて、将棋を指した。盤と駒は、日笠が持ち運び用の小さなセットを持っていた。携帯だけだとバッテリーの減りが気になるので、いつも持ち歩いているそうだ。全く日笠らしいなと思った。
 思いの外に興が乗って、二回、三回と続けて指した。穏やかな気候で風も冷たくはなかったが、日笠にとっては時間が長すぎたかもしれない、と川喜田は考えた。

 時刻は夕方に近づいていて、車内に深く西日が入り込んでいた。座席はほぼ埋まっていたが、乗客はみな静かだった。
 電車の走る音だけが響いていた。時々その音に合わせて車体が揺れた。日笠は深い眠りに入っているようで、川喜田に寄りかかったまま、身動きもしなかった。
 肩にその存在を感じながら、川喜田も電車の揺れに身を任せていた。
 三段リーグでの対局で日笠と指した後、ふとしたきっかけで連絡先を交換して、日笠の退院後は、将棋を指す仲になった。奨励会を退会になった川喜田にとって、それは予想外の出来事だった。親しくなって、彼の事を口に出して呼び捨てで呼ぶようになるとは、思ってもみなかった。
 最初のうちは、彼が病人だから放っておけないという、医者を志す者としての意識が強かった。しかし何度か指すうちに、日笠の将棋への思いの強さを改めて感じるようになった。日笠は将棋を指す時、いつも楽しそうだった。手術が成功してからは、三段リーグに出ていた時の暗い影は身を潜めて、病を患う前の明るさが戻ったように思えた。
 今の日笠は、奨励会への復帰を目指して、自宅療養しながら通院して治療を続けている。
 もし年齢制限までに復帰できなくても、
「その時はアマ棋戦で勝ちまくって、プロ編入試験を受けますから」
 三段リーグの対局後に言っていたように、あくまでプロになる道を目指していた。

 川喜田は電車に揺られながら、日笠の将棋を思い返した。
 日笠は、会うたびに強くなっている。
 積極的な攻めも、巧みな寄せも、前よりずっと鋭い。奨励会から離れていても、彼の将棋は、ますます磨きがかかっていた。
 そのうち対等に相手はできなくなるだろうな、と川喜田は考えていた。
 今は平手で、つまり同じ条件で指しているが、近いうちにハンデを付けなければならなくなるだろう。
 それは仕方のないことだ。日笠とは将棋に関わっている時間が違うのだから。
 大学の新学期が始まれば、これからもっと忙しくなる。医者になるための勉強にも、これまで以上に取り組んでいかなくてはならない。学ぶべきことは山ほどある。
 差は開いていく一方だろう。
 そう考えると、こんな風に二人で指せるのは今だけだろうな、と川喜田は思った。
 いつか、日笠はもっと強い相手と、もっと大きな舞台で指すようになるだろう。自分はそれを、遠くから見守る。それはとても嬉しいことだ。
 しかし、その光景を想像して、川喜田は気づいてしまった。ほんの少しだけ、寂しいと。
 それはまるで、細い針を心の隙間に刺されたようだった。心に空いた小さな穴の存在に気づいてしまって、川喜田は戸惑った。
――でも、しょうがないよな。
 日笠の寝顔を見ながら、川喜田はわずかに、唇を噛み締めた。
 電車の走る音だけが続いていた。
 そのまま何駅か通過した。車内のアナウンスを聞いて、川喜田は隣の膝をつついた。
「日笠、もうすぐだよ」
 何度か促すと、日笠はハッとしたように目を覚ました。眠そうな眼でいぶかしげに、こちらを見た。
「えっ!?」
 目が合うと、こぼれるような声が出た。すぐに状況を理解したのか、声を抑え、肩にもたれかかっていた首を素早く上げた。
「俺……すみません」
「大丈夫」
 日笠がうつむいたので、川喜田は付け加えた。
「よく寝てたけど、二駅前だったから」
「助かりました」
 日笠はうなずきながら一度立ち上がって、網棚の上のリュックサックを下ろした。それを膝の上に乗せて座り直した。彼は笑いながら言った。
「気づいたら寝ちゃってました。今日楽しすぎて」
「僕も楽しかったよ」
 川喜田もうなずく。今日の思いは、日笠にちゃんと伝えておきたかった。彼は嬉しそうに笑みを浮かべた。
「誘ってくれてありがとうございました。川喜田さん大学始まるでしょう? だから、今日指せてよかったです」
 少し考えるように顎に手を当てて、続けた。
「けど、俺ちょっと体力無さすぎですよね。ランニングでもしようかな。運動部みたいに」
「いきなり走るのは……ウォーキングから始めてもいいんじゃないかな」
「そこまで体力落ちてないですよ」
 そう言い返すので、川喜田は宥めるように答えた。
「自分の身体と相談しながらやればいいよ」
「そうですよね」
 日笠が納得した様子だったので、川喜田はホッとした。
 日笠は、かつてのように顔はやつれていないし、目の下の隈もない。将棋の駒を持つ手も震えない。一見すると、普通の健康な成人男性のように見える。
 しかし時々こんな風に、彼は治療中なのだと痛感させられる。公式の場で一局の将棋を指しきるには、まだまだ体力が戻っていないのだと思い知らされる事もある。
 けれども、日笠は決して棋士になる夢を諦めたりはしなかった。障壁は一つ一つ試行錯誤してクリアしていく。
「朝早く起きてやってみます。暖かくなるからいい時期ですよね、走るには。けっこう気持ち良さそう」
 日笠は「あ」と小さく呟いて、音の聞こえる方向を見た。まもなく日笠の降りる駅だと、車内アナウンスが告げていた。
「川喜田さん、大学の予定分かったらまた教えて下さいね。俺もまた連絡しますね」
 川喜田はうなずいた。電車が緩やかにスピードを落として駅に停まった。
「また指しましょう」
「ああ、また指そう」
 三段リーグでの一局後と、同じやりとりだ。このやりとりはいつしか、別れる時の決まり文句のようになっていた。
 いつか、指せなくなる時は、さよならの挨拶になるのかもしれない。川喜田は頭の片隅で考える。
 日笠は窓越しに、見えるように手を振った。川喜田も軽く手を振り返して、電車は駅を離れていった。
 規則正しい音を立てながら線路を進む。すっかり、日は暮れていた。
 こんな風に指せるのは今だけかもしれない。お互いが、お互いの目標に向かって進んでいるから。
 でも。
――今日はいい日だったな。
 川喜田はこの一日を思い返しながら、赤く染まる夕暮れを見つめていた。