リラクゼーション・ガーデン

連作短編① 川喜田と日笠が、足湯に入って詰め将棋を解く話。(2783文字)

 足元から湯気が上がってくる。
 日笠は川喜田と共に、とある病院の足湯に来ていた。二人は横に並んで足を浸けている。陶器の大きな鉢植えがいくつか置いてあって、さまざまな色合いの花が植えられていた。
 太陽の光が優しく降り注ぐ。よく晴れた、春の穏やかな日だった。
 二人とも、手に詰め将棋のプリントを持っている。川喜田が持参したものだ。
 足湯に入ってから、しばらくは二人で近況などを話していたが、ふと会話が途切れた。
「意外と、時間ありますね。なんか持ってくればよかったかな」
 日笠が独り言のように言うと、川喜田は傍らに置いてある自分の鞄に一度、目をやった。
「詰め将棋の問題があるんだけど、今やってみないか? 雑誌を見ていたら、面白そうなのがあったんだ」
 二人はこの後、指す約束をしていたので、本当はその時に見せようと思ってたんだけど、と川喜田は付け加えた。
「それ、いいですね」
 日笠がうなずくと、川喜田は用紙を渡してくれた。
 日笠はその詰め将棋をじっと見ながら考える。最初に思ったよりも、手数が多い。横目で川喜田の方を見ると、やはり同じように問題を見ながら手順を追っているようだ。

 ■

 二人が足湯に入っているのは、二週間ほど前のなにげない会話がきっかけだった。
 三段リーグでの対局の後、二人は時々、将棋を指す仲になっていた。
「この日空いてませんか」
「いや、この日は予定が……」
 言いかけて、川喜田は目の前で開いていた手帳に目を落とした。
「この日は病院の見学に行く予定なんだけど」
 川喜田は現在、医大の一年生だ。四月から二年に進級する。大学での病院実習はまだ始まっていないが、人よりも遅いスタートだから、と自主的に見学へ行っていた。
 話によれば、その病院には最近、足湯ができたらしい。この辺りでは珍しいので、一度直接見てみたいという。
「よかったら、日笠も一緒に行ってみないか?」
 親しくなって、川喜田はいつしか日笠のことを呼び捨てで呼ぶようになった。
 思いがけない誘いに、日笠は即答した。
 なにしろ奨励会にいた頃は、誰が誘っても決して遊びに行かなかった、川喜田に誘われたのだ。
「行く! 行きます!!」
 川喜田は嬉しそうにうなずき、自分のスマートフォンでその病院のウェブサイトを見せてくれた。
 添えられた文章では、足を暖めリラックスすることで、治癒効果を高めると説明されていた。それと同時に、患者同士が繋がる憩いの場でもあるという。

 川喜田は日頃から、日笠が将棋に打ち込んでいる姿を見てきた。
 奨励会への復帰を目指して、治療も、将棋の勉強にも懸命に取り組んでいるのを知っていた。
 そんな中で少しでも気分転換になればと、日笠を誘った。今なら、息抜きをする時間も大切だったのだと分かる。
 加えて、足湯が回復への手助けになればいいと思ったのだ。

 ■

 二人で話した結果、川喜田が院内の見学を済ませてから、足湯で合流することになった。日笠はその庭のベンチに座って、川喜田が来るのを待っていた。
 そこには、サイトで見たのと同じ空間が広がっていた。緑が植えられた庭では、患者たちが思い思いに過ごしている。何人かがのんびりと足湯に浸かっていた。腰掛ける所は木製で、真新しい木目が光と溶け合って、いっそう清々しく見えた。車椅子を押してもらって散歩をしている老人もいる。ベンチにゆったりと座って、ひなたぼっこをしている人もいる。
 日笠は中庭の人々を眺めながら、自分もかつては入院患者だったのだと思った。
 その立場から見ても、いい場所だなと思った。もし自分がここに入院していたら、気分転換にこの場所をよく訪れていただろう。川喜田が見学しに来たくなる気持ちも分かる。ここには人と自然が交わる、和やかな空間が広がっていた。
 日笠は入院していた頃を思い返していた。成功率の低い手術が成功して、早く退院したいと毎日のように思っていた。だが日々を過ごすうちに、病院の中には現実とは別の、ゆったりとした時間が流れているのに気づいた。それは身体が静かに、少しずつ回復していく時間だった。ここにも、そんな穏やかな時間が流れている。
 春の陽気も手伝って、ぼんやりとその場に座っていた。鉢に目をやると、ピンクや青、黄色や紫の花が、色とりどりに重なって咲いている。のどかだな、と思った。
 しばらくすると、川喜田の姿が見えた。

 ■

 足の指がムズムズしてきたのをやり過ごしながら、日笠は詰め将棋の問題を見つめていた。
 四歳ごろから始めたから、日笠の将棋歴はかなり長い。が、足湯に浸かりながら詰め将棋を解くのは、さすがに初めてだった。
 そうこうしているうちに、足元から身体全体がじわじわと暖まっていく。身体は温もりに緩んでいるのに、頭だけは集中して冴えている。
 その不思議な感覚を味わいながら、日笠は答えを探す。
 川喜田の方が先に問題を見ていたし、そもそも川喜田は詰め将棋が得意だ。けれどもこうして隣で同じ問題を解いていると、やはり対抗心が顔を出す。
 問題用紙を近づけたり遠ざけたり、用紙を逆にして相手側から問題を見たりしながら、頭をフル回転させた。
 もういちど川喜田の様子を見れば、問題をじっと見つめたその姿勢から微動だにしていなかった。
 暖かな風が吹いて、足元の湯気が流れていった。
――やっぱり、こうしてたら川喜田さんと指したい。
 日笠は次の一手を探しながらそう思った。見学が終わったら、道場か将棋サロンに行って指す予定だったが、そんなに待てない。ここで指したい。
 陽光の射す、温かなこの庭で指したいと思った。
 傍らに置いてあるリュックの中に、折り畳み式の小さな将棋盤と駒のセットが入っている。スマートフォンでも将棋はできるが、バッテリーの減りが気になるのと、良い手が思いついた時は実際に並べた方が早いこともあって、いつも持ち歩いていた。
 解けたら誘ってみよう。空いているベンチに目をやってから、日笠は問題に戻った。

「できた」
 短く告げると、川喜田は足湯から上がった。
 日笠はハッと顔を上げ「俺もう少し」とだけ口に出した。
 川喜田は用意してきたタオルで足を拭いている。川喜田から事前に、足湯に入るからタオルと濡れたものを入れる袋を持ってくるようにとメッセージが入っていた。学校の遠足みたいな連絡だけど、それも川喜田さんらしいなと思った。
「解けました!」
 ややあって、日笠も明るく言い放つと、足を上げた。川喜田と同じようにタオルで水分を拭き取りながら、
「答え合わせしましょう」
 と笑いかけた。

 十数分後、中庭のベンチで将棋を指す、二人の男性の姿があった。

あとがき