消化試合のあとで

三段リーグ最終戦後、川喜田と日笠が会話する話。
2ページ目は日笠視点のその後です。

日笠の友人(眼鏡)のキャラを捏造しています。
最終戦績や手術関係なども全体的に捏造です。(5530文字)

あとがき

 ざわめきが起こり、川喜田はふと気配を感じて振り返った。
 後方でこちらを見ていたらしい、日笠と目が合う。この会場に彼がいることに驚いていると、彼もハッとしたように目を見張り、頭を下げた。その動作につられるように、川喜田も一礼を返した。
 日笠の顔はやつれていたが、あの日と同じく、その眼は力を失っていない。手術はどうなったのだろうかと川喜田は思った。
 奨励会員達のざわめきは徐々に収まり、やがて静寂が訪れた。
 まもなく、三段リーグの最終戦である第十七・十八局が始まろうとしていた。

 前回の第十六局で退会が決定した川喜田だが、三段リーグは原則最終戦まで指すことになっているので、この日は久しぶりに将棋会館を訪れていた。
 午前・午後で二局を指し終えて、川喜田は諸々の手続きを済ませると、自販機がある休憩スペースに足を運んだ。
「あ、川喜田さん」
 日笠がベンチに座っていた。その傍らに、飲みかけのペットボトルが置いてある。彼はお疲れ様です、と続けた。
「お疲れ様。日笠くん、残ってたんだ」
「はい、ちょっと休んでから帰ろうと思ってたんですよ」
 答える日笠の顔には疲れの色が見えるが、それを押して少し笑みを浮かべた。
 対局は思った以上に気力や体力を使うし、夏の暑さもまだ厳しい。相当の体力を消耗しているだろうと思った。
「この間、すみませんでした。泣いたりして」
 声を抑えてそう続けた。殊勝な様子に川喜田は戸惑ったが、日笠としてはわだかまりがあったのかもしれない。
「いや、大丈夫。気にしてないよ」
 あの時は驚いたが、日笠の涙と決断で自分の迷いが吹っ切れたのだと川喜田は思っていた。だから、この言葉に偽りはない。
 川喜田は自販機のボタンを押すと、飲み物を取り出した。
「今日は来ないと思ってたけど……」
 話を向けると、日笠は少しびっくりしたようにこちらを見た。
「あ、そうですよね。手術、来月になったんですよ」
 彼は日常会話のようにその話題を口にした。余命三年なのだと友人達に話していた時のように、その口調はあっさりしている。
 けれどもその内心にはおそらく、相当の悩みや葛藤があるだろう。
 飲み物のふたを開けて口にしようとすると、日笠がベンチの端に寄って促した。
「川喜田さんも座りませんか」
「ああ……」
 うなずくと、日笠の隣に腰を下ろした。
「時間が空くんで、主治医の先生に頼んで許可を取ったんです」
「よく許してくれたね」
 思わず聞き返すと、日笠も少し驚いたようにこちらを見た。
 先日の対局で日笠は十二勝四敗。四敗を保ったまま終えれば、プロになれる上位二名になんとか入れるかもしれないという成績だ。
「ただ手術を待つんじゃなくて、できることをしたくて。今の状況を説明したんです」
 日笠の話では、医者に何とか最終戦に出られないか相談したのだという。小さな頃からプロの棋士を目指していることや、プロになれるリーグ戦で良好な成績を残していること。まもなく最終戦を控えていて、結果次第ではプロになれるかもしれないことを。
 日笠は駄目で元々だと頼み込んだが、主治医はそれを聞いて困ったように唸った。
「医者としては百パーセント止めるべきなんだろうけどね……」
 意外な反応に日笠が息をのんでいると、こう続けた。
「人間として、なんとかしてやりたくなるじゃない」
 主治医が対局の詳細を尋ねてきたので、日笠は将棋を知らない一般人にも分かるように、できるだけ丁寧に説明した。
 話を聞いた主治医は苦い顔をしながら、当日の体調が整えば出ても構わないと告げた。
「それで、条件付きで出られることになったんですよ」
 その条件とは、決して無理をせず、体調を悪化させないために最大限の努力をするということだった。同席して話を聞いていた看護師とも相談して対策を立て、症状を抑えるための薬は欠かさず服用した。
「勝ち目がない時はすぐ負けるようにも言われたんですけど」
 日笠はわずかに口許を上げた。
「そんなこと言われたら、速攻で勝つしかないじゃないですか」
 それが性であるかのように、日笠はさらりと言いきった。先日の対局で見せた会心の笑みを思い出す。
 将棋を終わらせる方法は大きく分けると三つある。負けを宣言して投了するか、時間切れになるか、反則とされる手を指すかだ。
 まっとうに考えれば、将棋はどちらかが投了しなければ終わらないのだから、自分から負けを宣言した方が早く終わらせることができる。しかし、日笠はその可能性については最初から考えていないようだった。
 これが、彼との違いだったのだと川喜田は改めて痛感した。
 ただ、日笠の主治医はそんな風に取られるとは思わなかっただろうな、と同時に思った。
「勝ったとしても他の人の結果次第だし、どうなっても次は手術だし。開き直ってたらいい将棋が指せました」
 話によれば、日笠の今日の成績は、二勝。プロになれる上位二名には入れなかったが、かなりの好順位で三段リーグを終えた。今後復帰する際も、この成績ならば有利に働く可能性が高い。何より、日笠自身が納得のいく形で手術に臨めるのが大きいだろうと川喜田は考えた。
「川喜田さんも勝ってましたよね」
 急に話題を振られたので言葉に詰まった。日笠がハッとしたように、俺の席から川喜田さんの方見えてたんですよ、と付け加えた。
「ああ、一勝一敗だったけどね」
 川喜田にとっては勝っても負けても退会は変わらない、いわば消化試合だ。しかし、これまでの悩みや迷いは嘘のように消え去って、自分や相手の指し手がクリアに見えた。それは、これまでに味わったことのない感覚だった。
 相手の将棋からは、川喜田自身がこれまで感じていた、苦悩や焦りが手に取るように伝わってきた。地獄と呼ばれる三段リーグで、誰もが抱えているものだ。
『退会が決まった奴に負けてたまるか』
 相手の念を痛いほど感じる。だが、川喜田は日笠と指した時のように、真っ向から受けて立った。
 一人は焦りにかられたまま自滅し、一人は意地を見せて最終盤で逆転された。そして、川喜田の三段リーグは幕を閉じた。
 相手の人生に報いる。その感覚を思い返す。
「だけど、最後にいい将棋が指せたよ。次につながると思う」
「次って……もう、決まってるんですか?」
 川喜田は思わず日笠の顔を見返した。
 彼は戸惑ったように視線をわずかにそらした。遠慮しているのだろうと川喜田は思った。退会する者に次を尋ねるのは普通に考えてもはばかられる。ましてや、自分が引導を渡した相手に。
 しかし、それでも聞いてくるのが日笠なのだろう。川喜田はさして根拠もないのになぜか、納得していた。それに、今後の事を尋ねられて気を悪くするわけではない。むしろ、心に決めた道の事を目の前にいる日笠にこそ、話しておこうと思った。
「僕は医者になる」
 日笠が目を見張った。
「え? 医者、ですか!?」
 川喜田がうなずくと、日笠は驚いた顔のまま尋ねる。
「どうしてですか?」
「僕の家は病院で、父が医者なんだ。小さい頃から医者になるように言われていた。ずっと悩んでいたけど、やっと決心がついたよ」
 奨励会ではこれまでしたことのなかった話をして、思わず息をついた。
「そうだったんですか……」
 日笠も同じように息をついて、噛みしめるように言った。
「それじゃ、これから大学で勉強するんですか」
「ああ、まずは医大に受からないと」
「川喜田さん受験生なんですね。勉強、頑張って下さい」
 違和感があったようで、一度首を振った。
「変ですよね、川喜田さんはいつも頑張ってるから。でも言いようなくて」
 少し考えて、日笠は続けた。
「川喜田さんなら、絶対大丈夫ですから!」
 日笠の目があの日のように生き生きと輝いていた。あの対局の朝、日笠は盤外戦術のために話しかけてきたはずだ。けれども将棋との出会いを語っていた時、その目の輝きに偽りはなかった。
 思わぬ励ましの言葉に川喜田は呆気に取られ、ああ、と小さくうなずいた。
「手術まで無理しないようにね。上手くいくように祈ってる」
 日笠は真顔になって、うなずいた。
「……はい」
 彼らしからぬ小さな声だった。こんなに素直だっただろうかと川喜田は内心思った。あの日の朝はお互いに人生が懸かっていたから、彼のふてぶてしい態度も当然のものだったかもしれない。彼とはあまり親しくなかったから、単にこんな一面があることを知らなかっただけなのかもしれない。
 飲み物を手に取ると、あと少しで空になろうとしていた。川喜田は最後の一口を飲み干すと立ち上がった。
「長話だったね」
「いえ……」
 飲み物の容器をごみ箱に入れると、日笠が声をかけた。
「川喜田さん、連絡先交換しませんか」
 突然の言葉に、上手く返答できない。日笠は畳み掛けるように続けた。
「もっと話したいです」
 座ったまま、上目づかいにこちらを見ている。
 もう奨励会員ではないのだから、将棋にプラスになるわけではない。日笠がそういうつもりでないのも分かっている。
 この申し出に応えたいと思うのは、彼が病人だからではないか?
 成功率の低い手術に臨む身の上に、同情しているだけじゃないのか?
 ほんの一瞬、川喜田は迷った。
 しかし、彼の思いに添いたい気持ちの方が上だった。その思いをしっかりと掴んだまま、静かに応えた。
「ああ、いいよ」
 まさか了承されるとは思っていなかったのか、日笠は驚いたようにうなずくと、すぐに自分の携帯電話を取り出した。川喜田も同じように携帯を出して、メッセージアプリのアドレスを交換した。
「また連絡します。本当にお疲れ様でした」
 日笠が立ち上がろうとするので、そのままでいいから、と軽く手を出して制した。
「お疲れ様」
 川喜田は日笠に声をかけて頭を下げた。
 奨励会員としてここで対局するのは今日で最後だ。心の中で将棋会館に向かって挨拶をする。

――お世話になりました。

 そして川喜田は部屋を後にした。