シンクロ

川喜田の癖を真似してみる日笠の話。(2852文字)

 

 ある例会での休憩中、日笠は机の上に盤を広げて、眼鏡の友人と並んで座っていた。
 友人から出題された詰め将棋を解いているのだ。
 日笠は遊びをやめて、将棋に真剣に向き合うようになった。その日笠に感化されるように、友人たちも空き時間には将棋の研究をするようになった。
 日笠達が座っている場所の前方に二つ席を開けた、反対側の列では、川喜田が本を広げていた。いつものように、時間を惜しんで将棋の勉強に取り組んでいた。
 日笠は盤上を見つめ、頭の中で駒を動かしてみるが、手数が多くてなかなか正解にたどり着かない。
 顔をしかめながら、気づかないうちにその手を口元に当てていた。
「どうした? 川喜田さんみたいな格好で考え込んじゃって」
 不意に声がした。ハッとして顔を上げると、奨励会でいつもつるんでいる、もう一人の友人が立っていた。
 と同時に、日笠は自分の手を口元に当てていることに気づいた。

 *
 時はこの例会の数日前にさかのぼる。

 日笠は起動していた将棋ソフトを閉じると、深く息を吐いた。外はすっかり暗くなっていた。
 疲れた目を閉じて眉間を押さえる。机の傍らには、小さなサボテンの鉢が置いてあった。
 しばらく目を休めると、気分転換をしようと思って、パソコンで動画サイトを開いた。検索ワードを入れて表示されたリストを探す。目当ての動画を再生すると、椅子に寄りかかって楽な体勢を取った。
 それは、とある将棋の対局の動画である。
 映像にプロ棋士の二人が映る。しかし日笠の真の目当てはプロの彼らではなかった。
 カメラが切り替わり、棋士の二人を横から映し出した。その奥に机があり、数人が座っている。画面の中央に映った小さな姿に目を凝らした。
 そこに、同じ奨励会員である川喜田がいた。

 プロの棋士を目指す奨励会員には、対局の記録係の仕事がある。文字通り、プロ棋士の対局に立ち会って、指した手を記録したり、秒読みなどをする仕事だ。
 記録係の川喜田は、背筋を伸ばし、正座で座ったその姿勢から微動だにしない。
 記録係には少ないながら報酬が出る。大学に行っていない川喜田は、記録係の仕事を引き受けることが多かった。
 奨励会員は、将棋以外のアルバイトは原則できない。そもそも、アルバイトや将棋以外の遊びに明け暮れて、勉強を怠っているようでは、プロの棋士にはなれない。そんな不文律があった。
 しかし、三年ほど前は日笠も、今の友人達と遊び呆けていた時期があった。後から入ってきた中学生に先を越されて、気持ちが腐りかけていたのだ。
 そんな折、十九歳の川喜田が入会する。
 十九歳なんて、そんなに遅く入会してきて何ができるのか。
 日笠は川喜田の様子を遠巻きに見ていた。最初は単なるやっかみと好奇心だった。
 だが、川喜田はいつも時間を惜しむように勉強し、努力を重ねていた。たとえ成績が振るわなくても、努力をやめなかった。
 そんな川喜田の姿を見るうちに、日笠もいつしか、将棋の研究を再び始めていた。

 記録係の仕事は終局まで続く。展開によっては、かなりの長丁場だ。待ち時間もかなり長くなる。多くの会員は、机の下に将棋の本を隠して読みながら記録をつけていた。
 今は対局の動画が残るようになったので、そこに映っている記録係は、たいてい眠そうな顔をしている。だが、川喜田は終局まで、眠そうな素振りさえ見せなかった。与えられた仕事をしっかりこなす姿は、とても川喜田さんらしい、と日笠は思っていた。
 しかし、この動画では少し違っていた。
 日笠は画面上のボタンを操作して、倍速で対局を追った。ほどなく、対局者の一人が一時間ほどの長考をした場面に差しかかる。
 その場面で川喜田は、じっと口元に手を当てているのだ。
 川喜田は深く考え込む時に、口元に手を当てる癖がある。これは奨励会員の中でよく知られていた。もちろん日笠も、川喜田と例会で何度か指した時に、その癖を間近で見ていた。
 日笠は映し出された対局の盤面を確認すると、じっと目を凝らす。
 この時、川喜田は何を考え込んでいたのか。日笠には分からない。
 この局面を対局者と共に悩んでいたのか、それとも机の下に隠してやっている、難しい詰め将棋に悩んでいたのか。
 日笠には分からなかった。だが、そんな姿が珍しくて、日笠はその動画を何度か見てしまっていた。

 日笠はふと思いついて、口元に手を当ててみた。
 何気なく真似てみた動作だが、不思議と心が落ち着いた。
 同じ格好をしながら、画面に映っている川喜田を見つめる。
 確かに、自分の考えに集中できる感じがした。例えるなら、マスクを身につけた時に似ている。
 冬の例会での川喜田は、いつもマスクを付けていたことを、日笠は思い出す。
 もちろん対局の時は外しているが、感染症の流行る時期に対策を欠かさないのは、いかにも努力家な川喜田らしいと思っていた。

 *
 話は冒頭の状況に戻る。

 友人達の視線が、日笠に集まっていた。
 隣に座っている眼鏡の友人も、こちらに目を向けている。少し前に川喜田の仕草を真似ていたので、思わずそれが出てしまったのかと思った。
「そう?」
 動揺を悟られないように、日笠は平然と応じ、その手を外した。川喜田に聞こえてしまったのではないかと、思わず前の席を盗み見る。だが彼は本に目を落としたままだった。
「どうして川喜田さんが出てくるんだよ」
 適度に声を潜めて日笠は尋ねた。集中していて聞いていないだろう、とは思ったが。
「この間の例会で対局してさー」
 友人は川喜田の癖のことを話した。川喜田は口元に手を当てたまま、三十分もじっと考え込んでいたらしい。
 何気ない風に話しながら、しかし日笠の心中は穏やかではなかった。

――川喜田さんに長考させるなんて、こいつどんな手、指したんだ!?

 親しくしている友人とはいえども、尊敬し見習っている相手とはいえども、奨励会員は皆、プロを目指すライバルなのだ。
「どういう局面だよ」
 日笠は雑談をしている風に、詳しくその話を聞き出そうとした。友人はいちど口頭で説明しようとしたが、並べた方が早いと思ったのか、将棋盤に目をやった。
「えーっと、これ使ってもいい?」
「晴に詰め将棋出してたんだけど」
 眼鏡の友人が慌てたように声を上げた。
「これ解けばいいの? こうきて……」
「答え分かった」
 日笠は平然と、その詰め将棋の答えを言い当てた。眼鏡の友人は苦笑いを浮かべながら、正解、とだけ言った。
「並べてみろよ」
 もう一人の友人に日笠が目を向けると、彼はうなずいた。椅子を持ってきて机の角に座ると、川喜田が長考していた場面に並び替えていった。
 日笠は普段通りを装いながら、その局面を目に焼き付けた。

 もちろん、それから日笠は、人前で口元に手を当てたりしていない。