メガネをかけた棋士は多い
■メガネをかけてみた棋士の日笠と、(医者の)川喜田の話。10年後以降設定。
「眼、悪くなったのか?」
待ち合わせ場所に現れた日笠は、眼鏡をかけていた。
対局で活躍している姿は日々目にしている。将棋の研究に打ち込みすぎたのだろうかと川喜田は思った。
しかし、問われた日笠は虚を突かれたように目を見開いている。しかしすぐに意図を察したのか、その四角いフレームを指差した。
「違いますよ。これ度は入ってないんです。俺、目はいいので」
「じゃあ、なんで」
日笠はフレームの向こうから目を輝かせた。
普段から日笠の対局を目にしていた川喜田だが、真新しい眼鏡をかけたその顔は見慣れないもので、不思議な感じがする。
「ちょっと、かけてみようと思って。棋士ってメガネをかけた人多いでしょう」
「ああ…」
川喜田は飯田師匠の顔を真っ先に思い出した。まさに、眼鏡をかけている。この場でざっと棋士の顔を思い出してみても、確かに日笠の言う通りだった。
今日は将棋の道具を扱う店に寄ってから、日笠の家で指す予定だった。二人は目的地への道を並んで歩いていく。
「この間、将棋連盟のイベントがあったんですけど、ステージで並んだら俺以外みんな、メガネだったんですよ。だから、俺もどうかなと思って」
将棋連盟のホームページには、所属している棋士の一覧が顔写真付きで載っている。その中でも眼鏡をかけた棋士は多い。
川喜田が奨励会に入る少し前、十四歳でプロになった少年が大きな注目を集めていた。その彼もまた、眼鏡をかけていた。十年以上の歳月が過ぎた今、トレードマークとなった眼鏡はそのままに、将棋界の上位クラスに君臨している。
「この間作ったんで、まだ仲間内には見せてないんですよ」
日笠はいつにも増して、明るい表情で声を弾ませた。眼鏡を作る前にネットで検索したり、奨励会での眼鏡の友人に話を聞いたりしたらしい。奨励会で日笠と親しかった彼も、確かに縁のはっきりした眼鏡をかけていたな、と川喜田は思い返した。
それから店舗に行って、店員のアドバイスを聞いた上で、この眼鏡に決めたそうだ。
「そうなんだ」
川喜田は相槌を打ちながら、眼鏡をかけた顔を横目に眺める。
日笠はこれまで一度も眼鏡をかけたことがなかったのだから、彼にとっては新鮮な体験なのだろうと思った。
職業柄、川喜田にとって眼鏡はあくまで、視力を矯正する物というイメージが強い。それは父の影響も大きいだろう。父は、記憶をたどる限り、ずっと眼鏡をかけていた。
病院に勤務している現在も、眼鏡をかけた医師は割といる。川喜田にとって、眼鏡をかけるのはそこまで特別なことではなかった。
だが、目の前の日笠は新鮮な思いで楽しんでいる。
「似合ってますか?」
日笠が眼鏡をかけた顔をこちらに向けた。
「ああ、似合ってるよ」
有無を言わせない満面の笑みで言われては、こう答えるしかない。
日笠はますます楽しそうに、その顔をほころばせ、話を弾ませた。
その姿にいつしか川喜田の表情も、柔らかくほどけていた。
▲
店舗での用事を済ませてから、二人は日笠の家で対局している。
いつもの日笠らしくないな、と川喜田は感じていた。
駒を減らすハンデを付けているので、日笠はいつも本気で指してくる。だが今日は、今一つ切れ味が鈍い。
もしかしたら体調が悪いのかと、川喜田が医者の思考で気を揉んでいると、日笠が眼鏡に手をかけた。
「あー、見づらい」
小さく呟いて、その真新しい眼鏡を外すと、畳んで傍らに置いた。眼をぎゅっと閉じて一気に開くと、盤上にもう一度目をやった。
日笠がわずかに口角を上げ、うなずく。
「やっぱりこの方がよく見える」
間髪入れずに駒を動かした。その手は自陣の急所を突いている。川喜田は思わず息を呑み、心境を悟られないように、その口元に手をやった。
だが、二人はもう何度も指している仲だ。その仕草だけで日笠は、優位に立ったことが分かったらしい。
裸眼でこちらを見ると、会心の笑みを浮かべた。全くいつもの調子を取り戻している。
後の感想戦で日笠が言うには、眼鏡のフレームが邪魔で盤の全体を見渡せなかったそうだ。
九×九の盤は成人男性が前にするには狭いくらいだが、プロ棋士の上位で争うくらいのレベルでは、ほんのわずかなことでも視界は大きく左右されるのだろう。
日笠は外した眼鏡を手に取って眺めた。
「メガネかけて指す人、すごいですね」
「慣れれば見えるようになるよ」
せっかく眼鏡を気に入っていたようなので、川喜田は励ましの言葉をかけた。しかし日笠は首を振る。
「いえ、俺はかけない方がいい将棋が指せると思います」
老眼になったら考えますね、と付け加えて笑顔を見せる。
自分に合わないと思ったら潔く止める。その判断の速さに、日笠が活躍している理由をまた、実感させられた。
将棋界では眼鏡をかけた強者も多いが、これが日笠なりのスタイルなのだろうと川喜田は思った。
「でも、メガネどうしようかな」
日笠が手にした眼鏡のレンズが光に反射して、うっすらと青みがかっている。川喜田は思い当たって尋ねた。
「ブルーライトカットは付いてるの?」
日笠は少し首をひねった。
「確か、買う時にそんなこと言われた気がします」
「それなら、研究の時に使えばいいんじゃないか」
将棋の研究をする際には、パソコンを使うのが主流だった。必然的に、パソコンやスマートフォンの画面を見ている時間はかなり長くなっているはずだ。
「いいですね! そうします」
日笠は安心したように笑みを浮かべた。
それ以来、その眼鏡はケースに入れられて、日笠のパソコンの脇に置かれている。
【おまけ】
「川喜田さんも似合いそうですよね。ちょっとかけてみてくれませんか?」
日笠は手にした眼鏡に視線をやりながら尋ねた。
「え? いや、いいよ」
突然の頼みに困惑しながら、川喜田は首を振った。
「そんなこと言わずに。俺ちょっと見てみたいんで」
しかし日笠は食い下がってくる。その目は興味津々だった。
川喜田は気が進まなかったものの、再度の申し出を断るほど嫌ではなかったので、仕方なくうなずくと眼鏡を受け取って、装着した。
途端に、日笠は目を輝かせて声を上げた。
「めっちゃ似合ってますよ!!」
「そうかな」
日笠は大きくうなずくと、まだこちらの顔をじっと見ている。気まずくなって目は合わせないようにしたが、日笠の視線はこちらから外れていないことが分かる。
川喜田は知らない事だが、この時日笠は、眼鏡をかけて白衣を着た川喜田の姿を想像し、余計に似合ってる、などと考えていた。
「ちょっと…俺より」
似合ってるじゃん、と日笠は小さく呟いた。
「え?」
その呟きは、川喜田には聞こえていない。日笠は笑いながら言った。
「何でもないですよ。本当似合ってますから、鏡見てみて下さいよ」
日笠は部屋の中の鏡を出そうとしている。川喜田は首を振った。
「いや、いいよ。本当に」
鏡の中にはたぶん、父と似た顔が映っているのだろう。
そのことが簡単に予測できたので、川喜田は自分の顔を見ようとはしなかった。