BLOOD TEST

川喜田が日笠の採血をする話。夢オチです。
話の性質上、血液・針を刺す表現が出てきます。
大丈夫な方はどうぞ。(5366字)

「川喜田さん!? どうしたんですか?」
「看護師さん達が取り込んでいて、代わりに来たんだ」
 朝の採血に現れたのは、川喜田だった。白衣をまとっていて、首から下げたIDカードには、漢字でフルネームが記されていた。その下に『Dr.Rihito Kawakita』と印字されている。
 その白衣姿は初めて見たとは思えないくらい、しっくり来ていた。奨励会の友人から、川喜田は退会した後、医者を目指していると聞いたことがある。
 日笠は、川喜田さん、本当に医者になったんだ、と思った。
「そうなんですか……ってことは、川喜田さんじゃなくて『川喜田先生』ですね」
 川喜田は少し驚いたようにこちらを見た。
「いや……」と言いかけて、思い直したように小さく頷いた。
「そういうことになるね。どうぞよろしくお願いします」
 改まったように頭を下げる。日笠は自分が言い出したことながら、面食らった。
「そんな、敬語じゃなくていいですよ。普段通りでいいです。俺も落ち着かないし」
「それなら、お言葉に甘えるよ」
 いつもの口調に戻った川喜田に、日笠はホッとして、よろしくお願いしますね、と返した。
「とにかく、皆さんには支障ないようにするから。今日は採血だね」
 川喜田はカルテを確認すると、ベッドテーブルの上に広げてあった、将棋盤に目をやった。
「これ、少し端に寄せてもいいかな」
 やんわりと尋ねられて、日笠は素早く盤を端に避けた。
「あっすみません、さっき並べてて」
「大丈夫だよ」
 川喜田は空いたスペースに、採血の器具を置いていった。ビニールの袋で密封されている、針も加わった。針にはチューブが繋がっていて、そこへ採血管をセットする仕組みになっている。
 準備が整う机上に目をやりながら、思わず身構えた。
 日笠は、採血が苦手だった。いや、本音を言えば、針を刺されること全般が苦手だった。子供の頃から注射が嫌いで、母親からは泣いて連れてくのが大変だった、と何度か言われたことがある。将棋を始めてからは、それを口実になんとか予防接種を打っていた。入院して手術をしたので、採血や点滴など、やたらと場数は増えた。でも慣れただけで、大人になった今も、苦手意識は変わらなかった。
「日笠晴さん」
 川喜田が手首の入院患者バンドを見ながら、氏名を確認した。フルネームのさん付けで川喜田に呼ばれるのが何だか不思議で、日笠は少し照れ臭いような気持ちで「はい」と返事をした。
「間違いないね」
 川喜田が採血用の小さな試験管に貼ってある、氏名のラベルを一つ一つ確認した。うわ、今朝は五つもある、と思ったが、顔には出さなかった。
「腕を見せてくれる?」
 日笠は入院着の袖を少し捲って、両腕を前に出した。川喜田は腕に目をやって、視線を止めた。少し首を捻って、「うん……」と呟いた。
「俺、血管見えにくいらしくて」
 日笠は、あえて軽い口調で笑いながら言った。
「看護師さんによく言われるんですよ~。血管がないって」
 何度か採血をして分かったことだが、日笠の血管は血が採りにくいらしい。初めて採血をする看護師からは必ず首をかしげられるし、うまく採血できずにやり直されたことも一度や二度ではない。何度か繰り返すうちに、採血の上手い人が来るようになったけれど、それでも今日は大丈夫かな、と採血の前はいつも不安になっていた。
 ただ、今日は川喜田が来ている。一回や二回、やり直すことになってもいいや。日笠は開き直っていた。
「そうなんだ。いつもはどっちの腕でやってる?」
「左ですね」
 川喜田は脇に寄せた将棋盤に目をやりながら、うなずいた。
「利き腕じゃない方がいいね。駒も動かしたりするだろうし」
 じゃあ左にしようか、と言うので、日笠は右腕を引っ込めた。
「親指を中にして、握って」
 日笠が手を握ると、川喜田は再度腕に目をやって、断りを入れてから軽く触った。手にぴったりと貼りついた医療用の手袋はごく薄いので、ほんのりと体温が伝わってきた。肘の裏から手のひらの方へ、感触を確かめるように触れた。
「少し暖めてみようか。手も冷たいし、暖めると血管が出やすくなるから」
 ワゴンのどこかに入れてあったのか、小さなハンドタオルにくるまれたカイロを取り出して、肘の裏のあたりに置いた。
 すぐ採血すると思っていたので、日笠は拍子抜けして、オレンジ色のハンドタオルをじっと見ていた。ぽかぽかと暖かさが伝わってくるのが分かった。
「ああ、手は楽にしてていいよ」
 左手を握ったままだったのに気付いて、日笠はハッとして、手を開いた。手のひらもほのかに暖かくなっていた。
「そういえば、さっき並べてたって言ってたよね」
 急に話しかけられて、日笠は思わず顔を上げた。
「そうなんです、この間のタイトル戦の……」
 白熱したその対局の事を思い出して、日笠の口調に熱がこもった。入院中とはいえ、大きな対局はスマートフォンを使って、配信で見るようにしていた。
「その対局なら、僕も見たよ」
「えっ! 川喜田さんも!? じゃなくて、川喜田先生も!?」
 言い直すと、川喜田は面食らったような顔をして、控えめに付け加えた。
「全部じゃないんだけど……」
「そうなんですか、俺が並べてたの中盤くらいなんですけど」
 川喜田が将棋の対局を見ていたことが嬉しくて、声が弾んだ。日笠は並べた局面について思わず説明していた。話に相槌を打ちながら、川喜田は頃合いを見計らったようにカイロを外した。
「うん、ちょっと血管見させてくれる? さっきと同じように手を握って」
 言われるがままに手を握ると、川喜田は肘の裏あたりに触れて、感触を確かめるように軽く押していった。
 何ヵ所か場所を変えていたが、感触をつかんだのか、同じ場所を二、三度確かめるように触れた。
「あった」
 川喜田が触れたその場所に、日笠も思わず目をやる。いよいよその時が来るのを感じて、日笠は小さく唾を飲み込んだ。
「……それにしても、朝起きたら形勢が逆転してたから、驚いたよ」
 が、川喜田は将棋の話を投げかけてきた。えっ、と思いながら「俺もそうでした」反射的に答える。
 そのタイトル戦は、片方がやや優勢だったが、もう一方が互角まで追い上げて終盤へもつれこみ、対局は深夜にまで及んだ。日笠は、消灯時間が過ぎてもイヤホンを使って観戦していたが、疲れと睡魔には勝てずに寝てしまった。終局は午前三時だったという。
 そんな話を続けながら、川喜田は合いの手を入れて素早く準備を進めていく。
「うん……うん、そうなんだ。腕締め付けるよ」
 ゴムチューブの器具で左腕の上を強めに締め付けた。
「アルコールはかぶれたりしない? 消毒するね」
 消毒綿で拭かれた箇所がひんやりとした。川喜田は流れるように針を手に取った。
「ちょっとチクッとするよ」
 言うやいなや、寝かせるように構えた針をプスリと刺した。
 声を出す間もなく、刺される所を見てしまった日笠は、あわてて目を反らした。
 しかし、覚悟していたはずの痛みが、あまりない。
 不思議に思って、腕をチラッと見ると、川喜田がセットした採血管に赤黒い血が少しずつ溜まっていくのが分かった。
「痛みやしびれはない?」
 尋ねられて、呆気に取られたまま「はい」とうなずいた。視線を上げると、川喜田は採血管に血が溜まる様子をじっと見ていた。
 真剣な表情に、思わず息を呑む。
 さっき将棋の話をしていた時の穏やかな顔とはまるで違っていた。これが医者の表情なんだと感じて、日笠は何も言わずに採血管を交換する様子を、ただ見ていた。二本目を溜めながら、一本目の管を振って、あらかじめ中に入っている薬剤と混ぜ合わせている。それが終わると、隣の採血管立てに一本目を差し込んだ。
 顔を上げた川喜田と目が合った。ふと表情を緩めて微笑んだ。
「もう二本目も終わるよ。順調だね」
 言われて気づくと、採血管がいっぱいになっていた。川喜田は三本目に切り替えて、同じ動作を繰り返し、二本目を採血管立てに置いた。
 すごくスムーズに進んでいる。日笠はあっけにとられて、話もせずに様子をただ見ているだけだった。同じ作業を繰り返して五本の採血が終わった。
 川喜田はチューブを緩めると、消毒綿を置いて、針を抜き取った。
「親指でギュッと強く押さえて」
 言われた通りにしばらく押さえてから綿を外すと、川喜田は針を刺した痕に小さな絆創膏を貼った。
「お疲れ様」
 柔らかい声で告げると、川喜田は笑みを浮かべた。やっとこの状況に頭が追い付いて、日笠は叫ぶように声を発した。
「すごい! 全然痛くなかったです」
「それなら、よかった」
 さらに嬉しそうに微笑むので、日笠の心も自然と高揚してしまう。
「一回で終わったし……川喜田先生、すごいですよ! ありがとうございました」
「日笠くんがリラックスできていたからだよ。僕も助かったよ」
 川喜田は手早くテーブルの上に置いた器具を片づけた。全てをワゴンに載せると、端によけた将棋盤も元通りの位置に戻した。
 日笠はもう一度お礼を言った。
「ありがとうございました、川喜田先生」
 川喜田は軽く首を振った。
「何かあったら遠慮なく呼んでください。お大事に」
 ワゴンを押して、部屋から出ていく白衣の後ろ姿を、日笠はドアが閉まるまで見送った。

 ■
 目を開けると、そこはいつもの病室だった。
 白いシーツが掛けられた枕の端に、頭が片寄って載っていた。窓の外がほんのりと明るくなっている。しかし周囲はまだ静かで、起床時刻の前であることは分かった。
 日笠は頭を枕の真ん中に、ゆっくりと戻した。さっきまで見ていた夢を思い返して、布団の中に頭まで潜り込んだ。
 視界が狭く暗くなり、その分バクバクと鳴っている心臓の鼓動を強く感じる。
 そもそも採血は看護師が来るもので、医者は回ってこない。その上、川喜田はまだ医者にはなっていない。聞いた話では、川喜田は大学に行っていないので、今は医大に入るための受験勉強をしているはずだ。
 全部夢の中の出来事だったはずなのに、やけにリアルな感覚が残っていた。
 日笠は布団の中へさらに潜った。ごそごそとシーツの擦れる音がした。湿った空気が蒸し暑い。
 何もかも都合が良すぎる。川喜田さんが先生で、採血に来て、全然痛くなくて、一回で終わって、その上将棋の話もして、笑いかけてくれて……
 今日は採血があるからって、あんな夢を見るなんて。
 不安な気持ちを自覚させられて、日笠は布団の中で寝返りを打った。本人は知らなかったが、その頬は一目見ればわかるくらい、赤く染まっていた。
 でも、川喜田の姿を思い出せば、嫌な気持ちをぐっと堪えることができると思った。夢の中ではない。奨励会にいた頃の、どんな時でも努力を続ける川喜田の姿を。
 日笠の目指す場所は、まだ遠い。手術の傷を治し退院して、病気を治療し、プロになって活躍している姿を、川喜田さんに見てほしい。
――川喜田さんも、頑張っているんだから。
 そう思い直して、日笠は布団の中から顔を出した。涼しい空気が、頭を現実に戻してくれた。
 部屋の外から、「日笠さん、おはようございます」と看護師の声がした。

 ■

 川喜田は目を覚ますと、二、三度、瞬きをした。不思議な夢だった。記憶の中で薄らいでゆく夢の映像を思い返しながら、川喜田は起き上がった。
 夢の中で、川喜田は医者になっていた。今は医大で採血の実習をしているから、あんな夢を見たのだろう。けれどその患者が、日笠だったことには驚いた。
 採血に向かう前に、川喜田は日笠のカルテを確認していた。そこには、採血の難しさと、これまでの失敗から看護師達が学んだ採血法が記されていた。それを参考に、実習で学んだ採血のコツを思い出して対応した。
 何食わぬ顔をしていたが、針を指す直前、日笠の肩がこわばって前に出ているのに気がついた。だから彼の緊張をほぐすために将棋の話をした。日笠にとって、一番肩の力が抜ける話題だと思ったからだ。
 実際にクラスメイトの採血をしたり、されたりして実感したが、患者にはなるべく、痛い思いをして欲しくない。できるだけ早く終わらせてあげたい。
 そう考えながら日笠の採血をした。上手くいったのは先人達の記録と、患者の負担を最小限にという思いのお陰だ。
 採血が終わった後、笑顔を浮かべた日笠を見て、川喜田は心底ホッとした。
 夢の中のことで、現実では既に退院しているはずなのに。感覚だけはリアルな夢だった。『川喜田先生』と呼ばれた声も、まるで現実のように、まだ記憶に残っていた。
 大学での勉強を終え、国家試験に合格したら、先生と呼ばれる時がやってくる。研修医から始まり、一人前の医者までの道は遠い。その時までに、『先生』という呼び名に相応しい自分になっていたい。
 川喜田はその長い道を思った。そして、日笠のことを考えた。日笠の手術が成功したと聞いたのは、医大の合格が発表された後だった。風の噂のような話だったから、彼のその後は知らない。
 日笠はどうしているだろうか、と川喜田は思った。元気でいて欲しいな、と願った。
 そしてベッドから立ち上がると、医大に行くための身支度を始めた。

 それから一週間後。川喜田は将棋雑誌で、日笠がアマチュアの棋戦に出場していることを知った。

あとがき