フェイス・トゥ・フェイス

 夏の強い日射しの下、二人は歩いていた。空は相変わらず晴れ渡って、大きな入道雲が浮かんでいる。
 日笠は新しい将棋会館について話してくれた。
「中は新しくなったし、駅に近くなったから便利になりました」
「そうなんだ」
 実際に対局をしている棋士が使いやすいのが何よりだと川喜田は思った。
「本当、いい環境の職場ですよ」
 冗談めいて笑みを見せた。その表情のまま、日笠は尋ねてきた。
「川喜田さんは、今何のお仕事してらっしゃるんですか」
 川喜田は思わず日笠の顔を見返した。ハッとしたように、「言いたくなかったら、いいんですけど」と付け加えた。
「そんなことないよ」
 川喜田は首を振った。その事をどこかで聞かれるだろうな、とは思っていた。一呼吸置いて口を開いた。
「僕は医者になったんだ」
 日笠が目を見開いた。
「医者!? それって、退会してから勉強したんですか」
「ああ。僕の家は病院で、父は医者なんだ。僕も小さな頃から医者になるように言われていたけど、僕は好きなことをしたくて、棋士を目指した」
 日笠は気まずそうに視線を少し落とした。しかし川喜田は静かに続けた。
「でも、あの日の対局で分かったよ。僕は勝負の世界に向いてなかった」
 川喜田は再度日笠の方を見た。今の彼はあの日のように瘠せ細っていないし、顔色もいい。奨励会で見かけていた時のような、明るさを取り戻してここにいる。それが川喜田にとっては何よりだった。棋士を諦めなければならなかった、苦い思いもないわけではなかったが、それ以上に彼が健康な身体になり、自分の夢に邁進してきたこと、そして結果を出せたということが、心底から嬉しかった。

 映画の中で、川喜田にとって印象に残った場面がある。
 主人公の手術は無事成功したが、しばらくの間は自由に動き回る事もできなかった。
 母親に退屈でしょう、と身を案じられた時、彼は答える。
「全然。頭の中で将棋指してるから」

 療養中の日笠は、ほぼ一日中将棋に没頭する日々を送っていたそうだ。このエピソードは、テレビ番組でも度々紹介されていた。
 身体が動かせなくても、何もできなくても、日笠はただ将棋に夢中になっていた。
 医者が病気を治すわけではない。病気を治すのは、患者本人の生命力だ。――これは川喜田が医者を志す前から、ずっと耳にしていた事だった。
 だから医者のみならず、医療関係者全てが、患者の回復力を高めるように日々努めている。
 医者の仕事は手術だが、病人にとってはそれで終わりではない。回復のために、換気や陽光、暖かさや栄養のある食事など、快適な環境が必要だ。
 しかし日笠にとってはそれに加えて、将棋が大きな力になったのだと川喜田は思う。
 それは理論的ではない考え方かもしれない。だが、いつか人と指したい、もっと大きな舞台で指したいという思いが、彼の回復力を高めた事は間違いないだろう。
 日笠は、将棋と共に生きている。そんな彼の姿が川喜田にはとても眩しく思えた。あの日も、今も。
 そんな何かに夢中になっている人達が、病に苦しんでいるなら、助けたい。病気を治して、健康な普通の生活を送れるように手助けをしたい。あの日から、川喜田は心底そう思えるようになったのだ。

「それで、改めて医者になろうと思った。大学に行ってなかったから、受験して約八年かかったけど……」
「八年ですか!?」
「医者になるのは時間がかかるから。僕も正式な医者になって、やっと二年目になるよ。今は、家とは別の病院で働いてる」
「そうだったんですか……」
 日笠は思案げに視線を動かすと、こう切り返してきた。
「ってことは、俺の方こそ『川喜田先生』て呼ばないとですね」
「そんな、今まで通りでいいよ。先生なんて大それたものじゃないから」
「大それてますよ! 退会してから大学入って医者になるなんて、やっぱり川喜田さんて」
 何かに気が付いたように、日笠は言いかけて言葉を切った。不思議に思って日笠の顔を見返した。
「あ、いや……すごいなって」
 彼は目を細めた。笑っていたが、川喜田には何らかの感情を抑えて笑顔にした、ように見えた。それが何なのか気にしているうちに、日笠は再び話し出した。
「それに、川喜田さんのそういう話聞いたことなかったから、聞けてよかったです」
 そういえば奨励会にいた頃、自分の話をしたことはあまりなかった事に川喜田は気付いた。
 全員が棋士を目指しているのが当たり前の場だから、親の反対を押し切って通っているという話はそぐわないと、無意識に思っていたのかもしれない。それに、何よりもあの頃は時間が惜しくて、無駄な時を過ごしたくないという気持ちが強かった。
 でも、今ならそれが無駄ではなかったことが分かる。
 映画を見て、奨励会に通っていた頃の道を歩き、そして日笠に再会して、川喜田の脳裏には十年前の記憶が鮮明に思い出されていた。あの三段リーグの朝と同じ問いを日笠は発した。
「川喜田さんてどうして将棋始めたんですか?」
 しかしそれは、自分の話をするための前置きではない。川喜田は答えた。
「子供の頃、詰め将棋の本が好きだったんだ。医者になるために父が用意した教材があったんだけど……」
 思いがけず、すらすらと言葉が出てくる自分に川喜田は驚いていた。
 年を経るごとに詰め将棋にのめり込んでいったこと。高校一年の時に詰め将棋の大会に出てみたら、いきなり五位に入賞したこと。そこで師匠である飯田に出会ったこと。
「えっ! 川喜田さんて高校まで将棋指したことなかったんですか!?」
「師匠にも同じ事を言われたよ」
「誰だって言いますよ! マジか……」
 最後の言葉を日笠は小さく呟き、ふと気が付いたというように続けた。
「川喜田さんが終盤にやたら強いの、詰め将棋が最初だったからなんですね」
「ああ……」
 日笠が衒いもなく将棋の話を出してきて、川喜田は少し戸惑ったように返した。
 確かに日笠と会って、あの頃の記憶や思いが蘇った。だが奨励会員だったあの頃と違って、今は毎日将棋漬けの日々を送っているわけではない。あの日の対局は、今でも覚えている。しかし、日笠が自分の将棋を覚えていたことは、川喜田にとって少し意外だった。
「でも飯田先生、よく川喜田さんを弟子に取ってくれましたね。もしかして、『弟子になりたければ駒落ちで私に勝ってからにしなさい』とか、あったんですか?」
「いや……そこまでは」
 飯田に弟子に取ってもらうために、何度も頼み込みに行った時の事を川喜田は思い出していた。
「……でも、それに近い事はあったかな」
 そう付け加えると川喜田は苦笑いを浮かべた。
 今思えば無謀だったとも思うが、若さゆえ、そしてどうしてもこのまま医者を目指す気にはなれない思いが強かった。
「それで試験を受けて、十九歳で奨励会に入ってきたんですね」
「ああ」
「でも医者のお父さんは? 説得したんですか?」
 当然の問いだったが、川喜田は一瞬言葉を失った。一呼吸を置いてからありのままを答えた。
「棋士になりたいと告げたら、『勝手にしろ』って言われたよ」
「……そうなんですか」
 日笠も真顔になって、正面を向いたまま口をつぐんだ。夏の暑い日差しの中に、雑踏の様々な音が混じりあって響いている。
「何か……変な話させちゃいましたね」
「大丈夫だよ。今考えれば行かせてもらえただけよかったと思う。納得いくまでやって、自分の力を出し尽くしたと思えたから」
 日笠は無言のまま、うなずくように首を下げた。
 奨励会は、その過酷さから、地獄と称される事もある。しかし川喜田にとっては、あのまま医大に入り、医者になるまでの年月を過ごす方が地獄だったかもしれない。しかも、その地獄は医者になってからもずっと、続いていたかもしれない。
 父は、息子にあくまで医者になることを望んでいたが、棋士になるための最後の道を塞ぐような事はしなかった。父の内心はともかく、それは事実だ。今の川喜田はそう考えるようになっていた。

 少し歩くと、横断歩道に差しかかった。歩行者の信号が赤になっていたので、人々と同じように川喜田達もその場に立ち止まり、信号が変わるのを待っていた。
「もう着きますよ」
 日笠は話題を切り替えるように、いつもの口調に戻って指を指した。その先に、新将棋会館のビルが建っていた。信号が青に変わり、二人は歩き出す。
 川喜田は、再びその扉の前に立っていた。
 日笠の映画のポスターが貼ってある。主演俳優が和服を身に着け、将棋盤の前に座り、一手を指している。周囲には、主人公を支えてくれた人々を演じた俳優の写真が、主人公を見守るように並んでいた。
 タイトル戦で和服を着た日笠の姿を、初めて映像で見た時の事を川喜田は思い出した。
 彼はやはりポーカーフェイスで盤の前に座っていた。タイトル戦や、重要な対局で着用される和服は、棋士の実力の証だ。思わず画面の中の姿をじっと見つめていた。
 日笠がタイトルを獲得したと知ったのは、勤務中の休憩時間だった。その夜の、喜びと一言では表しきれない湧き上がるような気持ちは、川喜田の中でまだ記憶に新しい。
 映画のポスターもその横のメモ書きも、先程と同じようにそこに貼ってあった。
 でも、さっきと違うのは隣に、日笠本人がいる。彼が映画のポスターを一瞥した。
「かっこいいですよね」
「え?」
 思わず日笠に視線をやると、彼はポスターからこちらを見て、笑みを見せた。
「俺がじゃなくて、彼」
 彼というのは日笠役を演じた主演俳優を指していた。病院の人々の間でもたびたび話題に上がる、実力派の俳優だった。
「棋士の仲間からは、実話って言うけどお前こんなにかっこよくないだろ、って突っ込まれたんですけど」
 日笠は照れたように笑いながら続ける。
「でも、映画見た人が俺を見た時、実物もかっこいいじゃん、って思って欲しいんですよね」
 行きましょうか、と明るく言い放って、彼は自動ドアを通過した。
 その背中を見ながら、川喜田は息を吐き出し、それからその扉の中へ足を踏み出した。