将棋会館の玄関口は、以前より明るく、新しくなっていた。
何をそんなにためらっていたのだろう、と川喜田は思った。移転しても、将棋を愛好する全ての者を迎え入れてくれる。この雰囲気は変わっていなかった。
入口にまだ新しい端末機が置いてある。ちょうど、病院にある受付の機械くらいの大きさだ。
日笠がその機械に案内を頼むと、音声で大まかな説明が返ってきた。これも病院にある案内の機械と同じような機能だった。
「基本的には前の将棋会館と同じなんですけど」
日笠が付け加える。一階が案内と販売棟、二階が道場と教室で、三階と地下は事務室、そして四階と五階は対局室になっている。
二階の廊下には自販機が並んでいる。暑い中を歩いてきたので、まず二人はそこで休息を取ることにした。
以前の将棋会館と同じくらいか、もしかしたら種類が増えているかもしれない。川喜田がそんな事を思いながら自販機を眺めていると、日笠が先にボタンを押した。
「川喜田さんはマイボトル持ってます?」
「ああ、持ってるけど……よく分かったな」
日笠はハッとしたように一瞬動きを止めた。
「いや、川喜田さんてそういうの持ってそうだなーて思ったので」
勘がいいな、と川喜田は思った。特にこの時期は熱中症の危険があるので、水分と塩分は必ず持ち歩くようにしている。二度ほど買い換えていたが、奨励会に行く時もボトルをいつも持ち歩いていた。
日笠は小気味よい音を立ててペットボトルのふたを開け、中身を飲んだ。
川喜田も鞄からマイボトルを出して、口を付けた。
一息ついたところで、改めて一階の売店に行くことにした。将棋会館の売店には、将棋関係の本や物品が充実していて、ここにしか置いていない棋士の色紙などもあった。
新しくなった会館の売店は、すっかり垢抜けていて、売店というよりちょっとした本屋のようになっていた。別々に行動することにして、川喜田は店内を見て回った。日笠は将棋盤のコーナーで用具を眺めている。
初心者向けコーナーの本は、将棋を教えている子供逹に勧められるかもしれないと思った。だが自然と、本棚の一角に足が向かった。
係員が書いたのであろう手書きで『詰め将棋コーナーはこちら』と書いてある。棚には初心者向けの物から上級者向けの作品集まで、様々な詰め将棋の本が並んでいた。詰め将棋専門の雑誌もバックナンバーを含めて整然と並べてあった。
川喜田はその雑誌をずっと定期購読しているので、詰め将棋に関する本の広告も目にしていた。だが、こうして実物を手に取って見るのはずいぶん久し振りのことだった。奨励会を退会してからは、当然ながら医者になるための勉強が第一で、読む本もまずは医学書だったからだ。将棋を辞めたわけではないが、将棋に関わる時間は目に見えて減っていた。
川喜田は棚から作品集を抜き取ると、跡をつけないように慎重にページをめくった。上級者向けの作品なのですぐには解けないが、解いた事のない問題を目にして新鮮な思いがした。中身を軽く確認してすぐに元通りの場所に戻したが、一度見た問題の解答が気になって、川喜田はいつになくそわそわした。あの問題はいくらか手数がかかりそうだ。解いてみたい、と血が騒いだ。
今日ここに来たのは全く予想外の出来事だったが、いっそ後で購入して帰ろうか。そんな事を考えていた時、声がするのに気付いた。
「……さん、川喜田さん」
はっとして横を向くと、日笠が側にいた。没頭していて、声を掛けられていたのに全く気付かなかった。日笠は口元に笑みを浮かべている。
「集中してたみたいですけど、なんか気になる本、ありましたか」
「ああ……ちょっと」
声を掛けていたであろう日笠に気付かなかったのが少し気恥ずかしくなって、川喜田は言葉を濁した。
「今も気分転換に詰め将棋やったりしてるんですか」
「ああ。問題を解くと冷静になれるから。将棋連盟のホームページに載ってるのもやっているよ」
日笠の対局予定や結果を見るために、川喜田はたまに将棋連盟のホームページを覗いていた。棋士の情報は一通り揃っていて、サイドバーに日替わりで詰め将棋の問題が載っている。
もっとも、それは将棋を愛好する一般向けの問題なので、川喜田ならば数秒で解けてしまうものだった。
医学の勉強の合間に、研修医になってからは仕事の合間にホームページの問題を解いたり、たまに自分で持っている作品集の問題を解いたりするくらいだった。
「将棋は? 今も、指すんですか」
日笠は興味ありげな目で尋ねた。
「ああ、将棋は、病棟の子に教えてる」
「えっ?」
不思議そうな顔をした日笠に説明を加える。
「僕は小児科医だから」
「それで子供に将棋教えてるんですね!」
日笠は納得したように笑顔を見せる。
「いいですねそういうの。俺も、今は対局で手一杯ですけど、いずれ普及もやりたいって思ってるんですよ」
今の日笠なら、将棋を指すことが何よりの普及活動になるのではないかと思った。映画で多くの人が日笠の存在を知り、病気を克服して夢を叶えた姿に励まされているからだ。しかし日笠は続けた。
「やっぱり、俺自身が爺さんに将棋を教わって、楽しかったっていうのがあるので。俺も誰かに将棋は楽しいって、直接思ってもらえたらいいなって」
「そうなのか」
「欲張りなんです、俺」
日笠は照れ笑いを浮かべると、高揚した様子で続けた。
「今はやりたい事、全部やってみたいんです」
そう話す日笠の表情には覚えがあって、川喜田はそれが対局の日の朝、日笠が見せた顔だったと思い出した。
映画を見て千駄ヶ谷の駅を訪れてから、あの頃の記憶やあの対局の事がまざまざと蘇るのを川喜田は感じていた。
あの日の将棋を胸に留めながらここまでやってきた。でも、ここまで鮮烈に記憶が蘇るとは思っていなかった。十年の歳月を経て、なお思い出せるとは。
「じゃあ子供逹にも『川喜田先生』て呼ばれてるんですね」
「いや、『リヒト先生』なんだ。名前の方が覚えやすいみたいで」
「そうなんですか! 『リヒト先生』っていいですね」
日笠は噛み締めるようにその言葉を発した。
病院での子供逹の話をしばらく続けた後、日笠は階段を見やって言った。
「二階の道場に行きましょうか」
川喜田も頷いてその階段を上がった。
開けたまだ新しいスペースに盤が並んでいた。道場の造りの基本は旧会館と同じだった。しかし、感染症対策で盤と盤の間にかなりスペースが空けられ、透明の板が区切るように置かれている。盤の周囲に集まっての見学は『ご遠慮下さい』となっていて、対局者は手の消毒をしてから対局する決まりになっていた。
道場の壁に、将棋の三つの礼が掲げられている。「お願いします」「負けました」「ありがとうございました」の三つだ。
「ここの三つは自動記録装置が付いてるんですよ」
日笠が奥に並んだ三つの席を指差す。この装置は無人の状態で棋譜を取ってくれるもので、数年前から実用化され、実際の対局で使用されているものだった。
「最初のうちはミスがあったとか色々問題ありましたけど、最近は本当に正確ですよ」
念のために補助の人間はいるものの、記録係の人手不足はこの装置でほぼ解決した。川喜田も奨励会員だった頃、記録係を経験していたが、その時に比べれば隔世の感がある。
一通りの説明を終わると、日笠は尋ねてきた。
「俺達も、一局指しませんか」
日笠にとっては、そう尋ねるのが当たり前であるかのように、自然な問いだった。彼ならそう訊くだろうな、となぜか川喜田は納得していた。
「ああ、指そう」
ごく自然に頷いた。
しかし川喜田は日笠の言葉の真意に気づけぬまま、その誘いを受けたのだ。
受付の係員に日笠が話しかけた。将棋会館だからプロの棋士がいるのは日常茶飯事だが、一般向けの道場に日笠が顔を出しているのに驚いた様子だった。本来なら、日笠はもっと上の階の対局室や研究室で指しているはずだ。しかし一般人は見学以外で上階への出入りはできない。今日会った自分達が指すには、この場所が適当なのだろうと川喜田は思った。
係員に段位を尋ねられる。川喜田は一つ息を吸った。
「元奨励会で、段位は三段でした」
係員は目を瞬かせて、分かりましたと答えると端末の画面を叩き、座席を案内してくれた。
椅子席の上に、木製の盤が置いてある。一見して古いものであるのは分かった。
「この盤、かなり使い込まれてるな」
「前の将棋会館から、持ってきたものなんで」
どうやら使えるものはそのまま使っているらしい。
日笠が目配せをして、椅子に腰掛けた。川喜田もそれに応じるように座った。この時はまだ、日笠の様子はこれまで通りだった。日笠が駒を盤の中央辺りに出した。
どの程度の手合いで指せばいいだろうかと川喜田は考えた。相手はタイトルを有しているのだから、かなりの実力差があるのは明白だ。
どのくらいでと申し出ようとした時、先に日笠が言った。
「平手でお願いします」
さらに軽く頭を下げた。
川喜田は驚いた。平手というのはハンデがない状態で指すことだ。つまり、あの三段リーグの日と同じように指す、ということになる。
本気か、と川喜田は思った。
しかし日笠の眼差しは真剣だった。気が付けば、先ほどまでのように笑みを浮かべてはいない。
彼なりの意図があるのだろうと川喜田は受け止めた。
「ああ、分かった」
二人は黙々と、自陣に駒を並べた。次は先手と後手を決める。席に付いているデジタル振り駒の結果は、日笠が先手だった。あの日と同じだ。
後手になった川喜田は対局時計を自分の右側に置いた。
「お願いします」
互いに言い合い、対局が始まった。
日笠は最初から本気で指してきた。手加減をする気など一切ないらしい。
将棋を指せばその人が分かる、と言う。現に川喜田も、病棟の子供逹と指していてそう感じる事があった。
日笠は、もうニコリともしなかった。普段、映像で見ていた対局と同じようにポーカーフェイスのまま攻め込んでくる。
普通に考えれば、元奨励会員とはいえ、プロが一般人に指す将棋ではない。
川喜田は、防ぐので精一杯だった。しかも日笠は間髪を入れず、次々と攻め込んできた。
これは『天才』などという一言で片付くものではない。
映像で見ていた日笠の将棋を今、目の当たりにして改めて、今の実力差がどれだけのものであるか思い知った。
同時に、これだけの将棋を指すようになった日笠の頑張りを、病を克服してプロになり、タイトルまで獲得した意志の強さを実感する。
川喜田は少しだけ戸惑った。しかしあの日のように迷いはしなかった。日笠は、きっと今の自分の将棋を見て欲しいのだろうと思った。あの対局の後、言っていたように。
あの時思い出した師匠の言葉を、川喜田はもう一度頭の中で繰り返し、心を決める。
――ただ、彼の将棋に報いればいい。
川喜田は日笠の手を受けて立った。普段は子供逹と指したり、軽く詰め将棋を解くくらいだから、川喜田が本気で指す機会は皆無だった。
それは元奨励会の川喜田にとって、全ての実力を発揮できる、数少ない場でもあった。
持ち時間はあの日と同じという訳にはいかず、短い間で進行していった。
決着は間もなく着いた。勝負は誰が見ても分かるくらい明白だった。
完敗だ。
「負けました」
川喜田は潔く頭を下げた。改めて盤上を見ると、ひどい負け方だと思ったが、悔しい気持ちは湧いて来なかった。
日笠はがっかりしなかっただろうか。久しぶりに指した相手がこんなひどい将棋で。川喜田は逆に相手を気遣ったくらいだった。
盤上の駒に手をやりながら、川喜田は先ほどまでの将棋を振り返る。
「……やっぱり、プロは強いな……」
全く素直な気持ちで口を出た言葉だった。しかし日笠は、川喜田の投了を聞いてうつむいたまま、顔を上げようとしない。
この状況には既視感があった。川喜田がそれに気付いたのと同時に、小さくすすり泣く声がした。
「……すみません……今日、泣くつもりじゃ、なかったんですけど……」
か細い声だった。日笠は、時折すすり上げながら言葉を続けた。
「川喜田さん、変わってないなぁと思って……。勉強して医者になったのも……でも、俺の将棋見ててくれたし、映画も見てくれたし、詰め将棋の本に夢中になってるし……」
日笠はこぼれ落ちた涙を指で拭った。
「それに、これは間違いなく、川喜田さんの将棋だ……」
日笠は涙目のまま、盤上に目を落とした。とても、いとおしいものを見るような瞳だった。
我ながらひどい将棋だったのに、と川喜田は少し戸惑った。が、これが十年という年月の差なのだと思い知っていた。
日笠は潤んだ目のまま、やっと少し笑みを浮かべた。
「俺、プロですよ。でも、川喜田さん……あの日みたいに指してくれた」
川喜田はハッとした。「あの日」が何を指しているのか、すぐに分かった。日笠も、あの日の事を思い出していたのかもしれないと思った。
「忘れたことありません。あの日、川喜田さんと指したから、今の俺がいるんです。こうやって、生きて将棋が指せるんです。だから……」
日笠が深々と頭を下げた。
「ありがとうございました」
涙に掠れた、けれどしっかりとした口調だった。川喜田は、それに応えようと口を開きかけた。
しかし、それより先に、川喜田の眼から一筋の涙がこぼれ落ちた。
あの日、勝負の結果は二つに分かれた。でも、あの日の将棋を胸に歩んできた。今日こうして、面と向かって将棋を指せた。
棋士にはなれなかったが、あの日の願いは、叶っていたのだ。
「え!? 川喜田さん?」
日笠がこちらを見て声を上げた。
川喜田は頬に流れた跡を拭い、何が起きたのか自覚した。
日笠が動揺したようにこちらを見ていたので、安心させるように微笑んだ。
「治ってよかった。本当に……」
その言葉を聞くと、日笠はホッとしたように笑みを見せた。
その後、二人は感想戦をした。簡単に言えば対局の反省会で、手の良しあしや最前手を互いに検討し合う事である。
そうは言っても、川喜田からするとひどい内容だったので、日笠の手筋の良さをただ褒めるのに終始してしまった。日笠もしまいにはそっぽを向いた。
「プロなんでこれくらい当然ですから」
その頬がほのかに赤らんでいる。照れているのだろうと思った。が、感想戦は負けた方が納得するまで行うのが通例なので、川喜田は最後まで話を続けた。
「ところで、身体の方はもう大丈夫なの?」
一通りの話を終えて、川喜田は尋ねた。意識していなかったが、それは再会からずっと心のどこかに引っ掛かっていた問いだった。
日笠は面食らったような顔をした。
「もうすっかり大丈夫ですよ。年に一度、健康診断に行ってるだけです」
棋士は将棋連盟で行っている集団の健康診断を受けるか、個人で病院を受診するかを選択できるそうだ。
「それなら、よかった」
日笠が回復した様子は映像でも見て取れたが、顔を合わせ本人の言葉を聞いて、川喜田は心底安心した。
「何年か前までは検査とか薬もらいに通院してたんですけど、全部しなくても良くなって。でも俺の主治医の先生が、健診奨めてくれたんですよ。職業柄、不規則な生活になるから体調に気を付けなさいって」
その医師が日笠の健康を気遣っているのが分かって、きっと良い先生なのだろうと川喜田は思った。
日笠が目を合わせて、こちらをじっと眺めた。
「こんな話してると、診察室みたいですね。リヒト先生の」
川喜田は面食らった。
「え。いや、そんなつもりはなかったんだけど……」
映像で見る分では健康そうだったが、通院状況などは聞いてみないと分からないので、思わず尋ねてしまった。本気で診察するつもりなら、最初から彼の様子を観察していただろう。そんな事を考えて、医者の仕事が板についてきたのだろうかと川喜田は思った。
「いえ、いいんです。俺、手術するって決めたら、周りの家族や友達に心配かけてたなって、やっと気がついて……」
日笠は視線を落とすと、言葉を切った。
「病院の先生達にも治るまで支えてもらいました。その分、俺は将棋で返すって決めてるんです」
力を秘めた眼で、日笠はこちらを見ていた。
「だから……川喜田さんにも、ご心配おかけしました」
日笠は頭を下げた。その様子を見て、川喜田はこれなら大丈夫だと確信した。きっとこの先も、自分の体調とうまく付き合って行けるだろう。
話が脱線してしまったが、お開きにしようと口を開きかけると、顔を上げた日笠はさらりと言い放った。
「それじゃ、もう一回指しましょうよ」
「え」
川喜田は唖然とした。実力差は先ほどの将棋ではっきりしているはずだ。
「今度は駒落ちで。やっぱり勝負は互角くらいの方が楽しいですから」
日笠は不敵な笑みさえ浮かべて、屈託もなく言った。
「ね、だからもう一回やりましょう」
川喜田はこの光景に、またもや既視感を覚えていた。と言っても、それは過去の日笠ではない。
病棟の子供逹と指して、いい勝負ができた時に、
「リヒト先生、もう一回!」
とせがまれたのを思い出したのだ。
子供と同じか、と内心苦笑してしまったが、期待に湧く日笠の瞳はあの日から全く変わっていない。きっと、幼い頃将棋に夢中になった頃から、ずっと変わっていないのだろう。
川喜田はため息をついた。
「しょうがないな」
呆れながらの肯定を日笠は笑顔で受け止める。
「やった。川喜田さん何枚落ちがいいですか?……」
早速駒を初期位置に直しながら、日笠は弾む声で尋ねた。