フェイス・トゥ・フェイス

 結局、その後さらに二局を指して、二人は対局スペースを出た。道場の出入口に人がまばらに集まって、どよめきが起きている。なんだろう、と川喜田が思っていると、首からカメラを提げた若い男性が声をかけてきた。
「日笠棋帝ですよね?」
 問われた日笠はうなずきながら返事をした。
「プロ編入からずっと応援してます」
「ありがとうございます」
「写真撮らせてもらってもいいですか?」
「ああ、いいですよ」
 日笠はうなずきながらさらりと応じた。その手の申し出には馴れている様子だった。それがきっかけになったのか、更に数人が日笠に声をかけてきた。
「映画すごく感動しました」
 女性の二人組が色紙と筆ペンを差し出す。
「これからも応援してます。サインをお願いします」
 日笠は少し考えてから、色紙に筆を走らせた。その次は、小学生らしい男児が声を上げる。
「僕も日笠棋帝みたいに強くなりたいです! 握手して下さい」
 緊張している様子の子供に、日笠は笑顔で応え、話しかけながら手を握った。
 ちょっとした列ができていた。映画の効果に感心しながら、川喜田はファンに応対する日笠を見ていた。周りの会話も耳に入ってくる。
「棋帝が道場で指してるって」
「マジかと思ったけど、本当にいるし……」
 何かの拍子に情報が拡散されたのだろうか。噂を聞き付けてビルにいた将棋ファンが集まって来たようだった。
 一通りの対応を終えた日笠は、壁際にいた川喜田に近づいてきた。
「すみません、待たせちゃって」
 川喜田は首を振った。
「まさかあんなに人がいるとは思わなくて」
「いつもこんな感じなのか?」
「今日、日曜日だし、たまたまですよ」
 日笠は首を振るが、映画が公開されてから、日笠の知名度が更に上がったことは間違いないだろう。
 お互い、十年前とは全く違った場所に立っている。
 でも、今日こうして再会して将棋を指せたのは、奇跡のような出来事だった。

 日笠が思い付いたように尋ねた。
「俺達も写真撮りませんか」
「僕と?」
 思わず聞き返すと、日笠はうなずいた。
「今日の記念に」
 川喜田が了承すると、日笠は良さそうな場所を探して二人で並んだ。将棋道場と書かれた看板が掲げられている。ベタな場所ですけど、と日笠は付け加えた。
 日笠が自分の携帯電話を自撮りモードにして、シャッターを切った。
 画面を確認した日笠は「うまく撮れましたよ」と嬉しそうに写真を見せた。
「これ送りますよ。川喜田さんアドレス教えてくれませんか」
 その流れで、川喜田は日笠と連絡先を交換した。川喜田の携帯電話の画面にも、同じ写真が表示されている。
「うまく送れました?」
「ああ、ありがとう」
 気づけば時刻は夕方になっていた。思いがけず、将棋漬けの一日だった。川喜田は医者を目指すようになってから、将棋に触れてはいたが、ここまで時間を費やすことはなかった。
 日笠も携帯電話で時刻を見たのだろう。少し改まった口調になった。
「今日はありがとうございました。付き合ってもらって。川喜田さん駅まで行きますか?」
 うなずいたものの、川喜田には一つ気になっていたことがある。
「帰る前に、売店にもう一度寄りたいんだけど、いいか?」
 日笠はすぐピンと来たらしい。ニコッと笑って見せる。
「さっきの詰め将棋の本ですか」
「ああ、やっぱり買って帰ろうと思って」
「それならすぐ行きましょう。売店五時までなんですよ、急がないと」
 促されて二人は階段を駈け降りた。午後五時まで残り五分ほどだったが、間一髪で詰め将棋の本を購入することができた。日笠も嬉しそうに「よかったですね」と笑顔を見せた。
 さっきの問題にじっくり取り組めると思うと、久方ぶりの高揚した気持ちが蘇る。
 この気持ちは、年月が経っても失っていないのだと思った。

 □

 新しく買った詰め将棋の本を、川喜田は大切に鞄に入れて家に帰ってきた。
 日笠とは駅まで歩いて、別れた。
 帰り道もお互いの話をした。今は二人とも、実家を出て一人暮らしをしている。日笠は棋士が多く居住する、将棋会館の沿線に住んでいるそうだ。
 呼び出された時でも行きやすいように、病院の近くに住んでいるのと似ているなと川喜田は思った。
 別れ際、日笠は頭を下げた。
「今日、ありがとうございました。三局も付き合ってもらって」
 日笠に倣って川喜田も頭を下げる。
「いや、楽しかったよ。こちらこそありがとう」
 日笠は満面の笑みを見せた。
「じゃあ、また指しましょうね。川喜田さん」
「ああ、また指そう」
 あの日と同じように、しかし川喜田は微笑んで日笠に応えた。この言葉は社交辞令のようなものだと同時に自覚していた。日笠は対局や研究が第一だろうし、自分も病院勤務がある。これから医者として学ばなければならない事が山ほどあるのだ。
 それでも、将棋を通したこの関係が、心のどこかで支えになっていくだろう。
 だから川喜田は日笠の言葉に応じたのだ。

 帰宅し、習慣になっている手洗いとうがいをすると、川喜田は袋から本を取り出した。詰め将棋の本を購入したのも何年ぶりだろうか。
 真新しい本の表紙を見ると、自然と気持ちが高まる。川喜田は中学の頃に小遣いを貯めて購入した本を思い出した。『禁じられた遊び』という詰め将棋の作品集で、今も本棚に入っている。
 川喜田の本棚に並ぶのは医学書が大半を占めているが、片隅には詰め将棋の本が今も並んでいる。
 川喜田は丁寧にページをめくった。先ほどの問題を探し、夕飯の前に解いてしまおうと思った。
 しかし思ったよりも手順が複雑で、川喜田は手元の用紙にメモを残していく。
 川喜田の鞄の中で、携帯電話がバイブ音を発して震えた。
 帰りの電車に乗る時、マナーモードに設定したままだった。しばらく鳴動が続くと音は止み、着信を知らせるランプが暗い鞄の中で点灯する。
 しかし問題を解くのに夢中になっていた川喜田はその音に気付いていない。
 携帯電話の画面には、メッセージの通知が表示されている。
 さっきアドレスを交換した日笠からだった。

 >今日は楽しかったです! ありがとうご……

 川喜田がこの着信に気付くのはもう少し後の事だ。
 その後のやり取りで、日笠の言葉が単なる社交辞令ではなかった事を、川喜田は知る。やりたいことを全部やってみたい、と話していた彼の言葉に嘘はなかった。
 この日の再会から新たな何かが始まろうとしていた。しかし、二人ともまだその事に気付いてはいなかった。