医者の子

川喜田の自宅へ日笠が指しに来た話。
日笠と父が対面して、川喜田が思い悩んだりしています。
川喜田の家は自宅兼病院の設定です。(約8500文字)

 

 奨励会の友達だと紹介すると、父の顔色が変わった。
「奨励会?」
 ピクリと眉をひそめ、低い声で尋ねた。
「将棋を指すのか?」
「はい」
 隣では、日笠が戸惑ったように視線を泳がせている。
 川喜田はしかし、はっきりとした声で返事をした。
 父が険しい顔で日笠をまじまじと見てから尋ねた。
「日笠くん、だったね」
「はい」
「今、病気の事で通院しているね」
「え?」
 唐突な質問に、日笠は面食らったように声を出した。遅れて質問に答える。
「はい、今は月二回ぐらい行ってます」
「主治医の先生に、将棋について制限はされている?」
「いえ、特に言われてないです」
 これではまるで、医者の診察だ。川喜田は父の問いかけに気を揉んでいた。
「なるほど……」
 返答を聞くと、父は思案している様子で、長く息を吐いた。
「それなら構わないが……無理はしないように」
 それから、川喜田に顔を向けて、念を押すように言った。
「利人、くれぐれも自分の本分を忘れるんじゃないぞ」
 川喜田は、「はい」とだけ返事をすると、日笠を連れて階段を上がった。

 

 川喜田の部屋は、三階にある。
 自宅は病院と同じ建物の中にあった。一番下が川喜田医院、二階と三階は、病院の倉庫と居住スペースだ。
 川喜田は生まれた時からここに住んでいたので、それが当たり前だと思っていた。でも、友達の家に遊びに行った時や、友達を連れてきた時、初めてうちは違うのだと気付いた。
 あの三段リーグの対局後、ふとしたきっかけで、日笠と将棋を指す仲になった。
 川喜田は退会後に合格した医大に通っていて、今は一年目の夏期休業中だった。
 日笠は通院をしながら療養中だ。言うまでもなく、プロ棋士を目標に、日々将棋の勉強に励んでいた。
 日笠と将棋を指すようになってから、川喜田は何度か日笠の自宅を訪れている。だから、今度はこちらから自宅に来ないかと提案した。
 家が病院である事や、これから医者を目指す事は、すでに話してあった。でも、実際に自宅を見せるのは今日が初めてだった。
 日笠はこの建物を一目見て、
「本当に病院なんですね」
 と驚いたように話していた。子供の頃、友達を連れてきた時と同じだった。
 自宅で将棋を指す事について、父がどんな反応をするか、気にならなかったわけではない。でも、日笠とのあの対局の後から、何を言われても大丈夫という心境になっていた。それに、父は仕事で一日の大半は、病院にいた。今日のような休診日であっても、病院関係の用事で出かけている事の方が多かった。
 だからまさか、玄関を通ってすぐのリビングで、父と鉢合わせするとは思わなかった。
 先ほどの父の言葉が、まだ頭の中から消えない。気まずい気持ちを切り替えようと努めながら、川喜田は自室のドアを開ける。
「どうぞ」
「失礼します」
 川喜田の後について日笠も部屋に入った。壁際に並ぶ本棚を見て、日笠が声を上げる。
「すごい本ですね」
 ほとんど天井に近い高さの棚に、本がぎっしりと詰まっていた。並んでいるのは、ほとんどが医学書だ。父に貰った本や、医大に入ってから買った本だった。
 しかし、その片隅にある本を、日笠は目ざとく見つけた。
「詰め将棋の本もある」
 日笠はかがみこんで背表紙のタイトルを確認した。中学の時に買った『禁じられた遊び』をはじめ、数冊の詰め将棋問題集が並んでいる。すべて川喜田が小遣いを貯めて、自分で揃えた本だった。医大に入ってからも、勉強の合間の気分転換にときどき問題を解いていた。
「『詰将棋無双』もあるじゃないですか。これ全部解いたんですか」
 日笠は驚いたように尋ねた。川喜田がうなずくと、すごいですねと口にして、こちらと本の背表紙へ交互に目をやっている。
「興味があるなら、日笠もやってみるか?」
 日笠と親しくなってから、そうして欲しいという希望もあって、彼の事は呼び捨てで呼ぶようになっていた。
「いや、俺はいいです」
 日笠は首を振り、続ける。
「まずは指しましょうよ」
 ローテーブルの上に準備してあった、将棋盤に目をやりながら日笠は言った。普段は使っていないので、あらかじめクローゼットの中から出しておいた。
「そうだな」
 やっぱり日笠ならそうするだろうな、と思いながら、川喜田はクッションに座るよう促した。
「場所はそっちでいいか?」
 日笠がはい、とうなずいたので、二人はクッションの上に座った。二人とも背筋を伸ばし、足の親指をきれいに重ねていた。
 川喜田が袋を開けて、盤の上に駒を出す。木製の駒が小気味良い音を立てた。二人は条件反射のように手を伸ばすと、駒を初期位置に並べていった。
「そういえば」
 日笠が手を動かしながら言葉をかけた。
「川喜田さん、お父さんに俺の病気の事話したんですか?」
 思わず手を止めて正面に視線を合わせた。
「いや……話してないよ」
 日笠と時々指すようになって、出かける時は家族に断りを入れていたが、将棋の事はわざわざ言っていなかった。だから、日笠について詳しく話した事はない。
 父に棋士の夢を反対されていた事を、日笠には簡単に話してあった。が、退会もしているし、すでに過去の話なので、話の流れで一度、軽く触れた程度だった。
「えっ! じゃあ見ただけで分かったんですか?」
 日笠が驚いたように声を上げた。
「ああ……そういう事だね」
 父なら分かるだろうと川喜田は思った。なにしろ、毎日患者を診ている現役の医者なのだから。
 日笠の体調は、親しくなったばかりの頃と比べると、だいぶ良くなっていた。顔色も良くなっているし、三段リーグで指した時のように、指も震えたりはしなかった。
 だが、病気で痩せ細った体は、まだ完全に戻ってはいない。医療従事者ならば、何か病気をしたとすぐに推測できるだろう。父のように、通院している事まで推測できるとは思ってもいなかったが。
「すごいですね!」
 川喜田の答えを聞くと、日笠は笑って言った。どこか嬉しそうだった。
 日笠の反応に、川喜田は少し戸惑いながらうなずくと、また手を動かして駒を並べていった。

 ■

「川喜田さん、やっぱり終盤強いですよね」
 日笠が盤上の駒を触りながら言った。何局か指して、すでに三時間以上が経過していた。
 彼は何度か、終局までの流れをなぞるように駒を動かした。それから元の位置に戻し、口を開いた。
「よし、次は間違えないんで。もう一回指しましょうよ」
「ああ……でもその前に、水を足してくるよ」
 傍らに置いてあった水差しが、空になっていた。
 ここまでたいした休憩もなしに、一局指しては感想戦を繰り返していた。日笠はその度に、新しい戦法を試しているようだった。会っていない間に、あれこれ考えたものなのだろう。
 昼食はお互いに済ませてあった。指しながら水分補給をしていた。こちらで用意したおやつと、日笠が持参した個包装のお菓子も時おり口にしていた。
「じゃあ俺は先に並べてます」
 頼むよと言って、川喜田は水差しを片手に立ち上がり、二階へと下りた。
 キッチンに入ると、浄水器の蛇口をひねる。細く流れる水が、水差しを満たすのを待つ。
 そこへ父が入ってきた。手にした自分のマグカップに、コーヒーを淹れている。
「まだやっていたのか」
 出し抜けに問われた。父はキッチンの時計に目をやると、厳しい口調で続けた。
「いつまでお前の遊びに彼を付き合わせるつもりだ」
 そんなつもりはなかった。むしろ、日笠の方が積極的だ。しかも一局を指すごとに、日笠の調子は上がっているように感じられた。
「でも……彼の体調は悪くないので」
「今は回復に専念させる時期だ。病人に無理をさせるんじゃない」
 無理をさせているつもりもなかった。だが、そう言われてしまえば反論できなかった。
「お前が彼の様子をしっかり見ているんだぞ」
 コーヒーが入った事を知らせるアラーム音が鳴った。それを合図にするかのように、父はマグカップを持って出ていった。
 後には、コーヒーの苦い香りだけが漂っていた。

 

 盤の向こうにいる日笠が、素早く駒を進めた。対局はすでに中盤に差し掛かっている。
 川喜田は部屋に戻って、盤の前に座り、自陣の駒を並べた。そして再度指し始めたが、どうやって始めたのかよく覚えていない。ここまでの動作はほとんど無意識で行なっていた。
 頭の中では先ほど父に言われた言葉が、何度も繰り返し再生されている。
『病人に無理をさせるんじゃない』
 川喜田は日笠の手付きを観察したが、体調が悪そうには見えなかった。変に思われないように、ときどき視線を上げて日笠の顔色も観察した。だが、特に顔色が悪いわけでもない。何より、こうして盤を挟んでいれば、日笠がいつにも増して勢いに乗っている事くらい分かる。
 額に汗がにじんできた。思わず川喜田は、口元に手を当ててじっと考えた。じわじわと、心拍数が上がっている。その感覚が指先から伝わってきた。
――たとえ今は調子が良さそうでも、やめた方がいいのか?
 でも、日笠を病人扱いするのは違うと思った。あの三段リーグの時、苦しい場面で脳裏によみがえった、飯田師匠の言葉を思い返す。
 悩んでいる場合ではない。ただ、彼の将棋に報いる手を指せばいい。
 集中しろ、と川喜田は自分を鼓舞し、次の一手を指した。しかし、間髪入れずに返される。調子が悪いとは、とうてい思えなかった。
 思わず息を呑み、盤の全体に目を行き渡らせながら、次の手を探る。
 心臓の鼓動が強く脈打っている。冷静さを取り戻したくて、深く息を吐いた。父に何を言われても大丈夫だったはずだ。それなのに、父の言葉にこれだけ動揺している自分に戸惑っていた。
 でも、父の言葉は自分の事ではなく、他でもない日笠の事だった。
 プロ棋士を目指して、将棋の勉強も、病気の治療も頑張っている。そんな姿をずっと見てきた。いつの間にか、いや三段リーグで対局したあの日以来、彼の事を心の中ではずっと、応援していた。
 奨励会の退会が決まった一局の対戦相手に対して、そんな風に思うのは普通ではないかもしれない。
 でも、あの対局の後、彼に生きて欲しいと心底願った。
 それはどうしようもない性分なのだと思い知った。この家に生まれて、患者を治療している父の姿を見てきたからだ。
 だからこそ医者になりたいと願った、今の自分がいる。そう川喜田は思っていた。
 日笠を連れてきた時に、病を患っている事を言い当てた父の言葉だったからこそ、心は揺れた。父の見立ては、たくさんの患者を診てきた現役の医者のものだからだ。
 揺れる心で思考した末に、川喜田は駒を動かした。すると、相手は盤を一瞥した。
 次の瞬間、バチンと強い音を立てて、日笠が駒を指した。その音に我に返って、顔を上げた。日笠がこちらを睨みつけていた。
「川喜田さん」
 低い声だった。
「さっきから全然集中してないですよね」
 日笠は動かした駒から指を離した。目をそらすと、わずかに口元を上げて、笑うように言った。
「それとも、俺と指すの飽きちゃいましたか?」
 父の言葉に囚われて、目の前にいる日笠と向き合えていなかった自分に、川喜田は気がついた。日笠に失礼な事をしてしまった。
「違う。違うんだ……ごめん」
 彼にどう伝えればいいのか。言葉を探す。
「今日はこのくらいにしよう」
 日笠が、「えっ」と小さく口にした。
「今日、調子が良いのは分かってるんだ。でも、ちょっと時間が長いから、気になってて」
 壁の時計に目をやりながら話した。日笠も振り返って時間を確認した。
「今は大丈夫でも、後で疲れが出るかもしれないから」
 父にそう言われたからではない。医者である父の話を参考にして、自分で判断した。
 日笠はいつも、心から楽しそうに指していた。だからいつでも、そんな彼に報いるように指したかった。でも本来彼が指すべき場所は、ここではないと川喜田には分かっていた。
 日笠には、もっと大きな舞台で、もっと強い相手と指して欲しいから。
「この一局で終わりにしよう」
 盤を挟んでいると、向こう側の相手の様子は手に取るように分かる。
 日笠はあからさまに残念そうな顔で、唇を噛んでいた。やり場に困ったように盤面をじっと見つめている。
 ややあって、こちらに視線を向け、口を開いた。
「……いいですよ」
 その言葉にホッとした途端、日笠は一息に呟いた。
「川喜田さんが言うなら……」
「え?」
 それはとても小さな声だったので、川喜田は思わず聞き返した。けれど、「なんでもありませんよ」という言葉が返ってきただけだった。そして、その顔には笑みを浮かべていた。
「だったら、今日はここまでにしませんか。続きはまた今度って事で。そうしたら次の楽しみができるでしょ?」
 いい事を思い付いたと言わんばかりに、日笠は声を弾ませている。張りつめていた緊張がほぐれて、川喜田はぽかんとした。切り替えが早いな、と思った。
「僕は構わないけど……いいのか?」
 日笠がうなずいた。
「はい。というか時計見たらもうこんな時間になってて、びっくりしましたよ」
 笑いながら続ける。
「夕飯は家で食べるって約束してるんです。俺がプロになったら、皆そろって食べる時間もなくなるから……って」
 家族とそんな話をしていたのだろう、日笠はどこか和やかな様子で話した。そして、指しかけの盤に目をやるとこう続けた。
「せっかくなんで、封じ手にしてみませんか。タイトル戦みたいに」
「ああ、そうするか」
 二日制のタイトル戦では、一日目の終わりに次の手を書いた用紙を預けておいて、次の日に開封する。
 日笠はその封じ手を真似てみようと言うのだ。
 奨励会にいた頃、川喜田は記録係として、封じ手をする場に立ち会った事があった。日笠もたぶん、同じような経験があるのだろう。
「俺、後ろ向いてますから」
 こちらを向いていても内容を覗きこむ事はないと思うが、日笠が背を向けた。目も閉じているようだ。
 川喜田は次の手を記入するための紙とペンを机の上から取ってきた。正座のままの日笠に目をやりながら、声をかけた。
「考えてる間に、少し休みなよ。足も崩して楽な姿勢で構わないから」
「そうですね、じゃあ」
 日笠は正座していた脚を自分の前に伸ばした。後ろに手をついて、くつろいだ様子で座っている。
 川喜田はその後ろ姿を見ながら、記入するのはもう少し後にしようと思った。実は、次の一手はもう決まっていた。先ほどまでの動揺は嘘のように治まって、すんなりと次の手が浮かんだのだ。でも、日笠に少し休みを取って欲しかったので、まだ思い付かない風を装っていた。
 そんな矢先に、日笠が後ろを向いたまま呼びかけた。
「川喜田さん、まだですか~?」
 その明るい声に、思わず呆れてしまった。もう少し休んでいればいいのにと思いながら、次の手を書き込んで紙を折り曲げた。
「書けたよ」
 日笠は脚を伸ばしたまま、こちらに身体を向けた。声の調子のまま、楽しそうな顔をしていた。
 畳んだ紙を川喜田が封筒に入れて封をした。それから、その綴じ目に二人でサインを入れた。
「川喜田さんが持ってて下さい」
 日笠の言葉にうなずくと、鍵のかかる引き出しに、その封筒をしまった。

 

 階段を降りると、日笠を連れてきた時と同じように、父がリビングにいた。椅子に座りながら、新聞を広げて読んでいる。
 川喜田はほんの少しの間、言葉を探して身構えた。
「彼を駅まで送ってきます」
 父は新聞を持ったまま腕を下ろして、こちらを見た。
「お邪魔しました」
 日笠が恐縮したように頭を下げた。
 父は日笠の様子を一瞥すると、新聞に視線を戻した。
「ああ……お大事に」
 川喜田は、日笠と顔を見合わせた。日笠がきょとんとしたような顔で、こちらを見ている。たぶん、自分もあっけにとられた顔をしているだろう。
 父の言葉は、診察が終わった患者にかける言葉そのものだった。父は日笠の事を病人として見ていた。だから本人にとっては当然の発言だったかもしれない。
 だが、息子の友人が自宅を後にするというこの状況には、不釣り合いな言葉のように思えた。
 息子たちの反応で、口をついた発言の不自然さに気付いたのか、父は小さく咳払いをすると、新聞を顔の前に広げた。
 ごまかすような父の様子に、彼らはしばらく動きを止めて固まっていた。
 そして顔を見合わせたまま、どちらともなく、笑みがこぼれた。

 

 ■その後

「川喜田さんは言ってくれないんですか?」
 二人は階段を降りて、病院の裏から外へ出た。駅への道を歩きながら言葉を交わす。
「え?」
 何の事か分からず、川喜田は聞き返した。
「『お大事に』って」
 日笠は笑いながら付け加えた。
 さっきの父の事を言っているのか。
 意味は分かったものの、川喜田は戸惑った。眉をしかめて、その疑問を、そのまま言葉にした。
「なんで……」
「いや、なんでもないです」
 日笠は笑みを浮かべたまま、歩幅を広くして数歩、前に出た。あっ、と思った川喜田も大きく踏み出す。しかし日笠の後頭部が目に入っただけだった。茶色の髪がふわふわと揺れている。
 長時間指していた割に、その歩調はまだしっかりしていた。以前よりもだいぶ体力が戻ってきたのだろうと川喜田は思った。
 そして先ほどの日笠の言葉について考える。
 思い返せば、日笠がなぜそんな事を言ったのか、時々分からない時がある。言葉の意味は分かるが、意図が読み取れないと言った方が適切だろうか。
 奨励会に入った時、日笠はすでに在籍していたので、約七年間は同じ場所で過ごした。といっても、退会が決まったあの対局まで、日笠とは特に親しくはなかった。奨励会での対局はもちろん何度かしたし、多少の話もした事がある。でも、それだけだった。
 日笠と親しい関係になったのは、お互いの人生が懸かった対局をした事が、やはり大きなきっかけだったのだろう。でも、今考えるとそれだけではなかったように思える。
 日笠と将棋を指す仲になって、川喜田には気付いた事が一つあった。どうやら、あの対局の前から日笠に好かれていたらしい、と。これはあくまで川喜田の推測だった。でも、彼の言動や行動を見ていると、どうやらそんな気配がする。
 でも、果たして何がきっかけだったのか。川喜田にはまるで心当たりがなかった。奨励会にいる時、彼に何かしたのかもしれない。が、当時は人より遅い年齢で入会した差を埋めようと、起きている間はひたすら将棋の勉強に取り組んでいた。率直に言ってしまうと、何があったのか覚えていない。
 だから時々、日笠の言葉の意図が分からなくて、その度に不思議に思っている。かといって、昔何があったのか訊くのも失礼な話だろう。そう考えて、尋ねないままになっていた。
 川喜田は先ほどの日笠の言葉を思い返した。要するに、「お大事に」と言って欲しかったようだ。
 日笠が懸命に治療に取り組んでいるのは知っている。身体を大事にする事も分かっているだろうから、取り立てて日笠を労るような言葉をかけてきたわけではなかった。
 でも今、日笠はそう言って欲しいと言っている。理由はよく分からないが、とにかくそう声をかけて欲しいらしい。
 川喜田は、やはり彼の希望に応えたいと思った。
 しばらく日笠の後ろに着いて歩いていくと、横断歩道の信号が赤になっていたので、隣に並んだ。それに気がついた日笠が声をかけてくる。対局の事や自宅の感想などを話した。彼はすっかりいつもの調子に戻っている。
 すると信号が変わって、歩行者専用の曲が流れ出した。二人は足を踏み出す。同じように並んでいた何人かの人々も同じように歩きだした。
――でも、どう言えばいいんだろう。
 川喜田は歩を進めながらさらに考えた。
『お大事に』という言葉に、どんな気持ちを込めたらいいのか。
 川喜田は父の様子を思い返した。
 あの場に似つかわしい言葉ではなかったが、父はごく自然に、医者の決まり文句を発していた。父にとっては、日笠はあくまで一人の病人だったのだろう。それは病院を訪れた患者を労い、治癒を願う言葉だった。
 高校生の頃、父のような医者にはなりたくない、と思っていた。しかし、医者を目指す立場になってみると、無意識に医者である父の姿を見習っている事に、川喜田は気付いた。
 でも、小さな頃から医者になれと言われて、その姿をずっと見てきたのだ。それも無理はない。見習うべきは見習って、生かせばいい。自分が望む医者になるために。
 今の川喜田は、そう思うようになっていた。

 そんな事を考えているうちに、駅が見えてきた。駅名の掲げられた入り口まで来ると、日笠は「ここでいいです」と言った。
「また指しましょうね。近いうちに! 指せる日教えて下さいね」
「ああ、また連絡するよ。気をつけてね」
 日笠は「はい」と答えてうなずいた。
 一日でも早く病気が治って、日笠の目標に早く手が届いて欲しい。
 そう願いながら、川喜田は医者の決まり文句を口にした。
「お大事に」
 日笠がハッとした表情でこちらを見た。次の瞬間、明るい声で応えた。
「はい!」
 満面の笑みを浮かべていた。

 

あとがき