紅葉と紫のバレンタイン

 

紅葉にチョコをあげる式部の話です。

【!注意!】
・式部が紅葉自身を意識している(片思い)
・式部の桜ファンが紅葉にバレて、二人が桜の将棋部屋でVSをするようになった設定
・原作で銀杏がしたことを式部がしている描写あり
・原作に描いてあること以外はすべて捏造

それでも大丈夫な方はどうぞ。

将棋や奨励会については、ど素人なので変なことを書いているかもしれません。
温かい目で見ていただけると助かります。

初出:2020年02月10日 20:35  (3359文字)

 

 

「頭が疲れたので、甘いものでもどうですか?」
式部は鞄に入れていた紙袋の中から、小さな箱を取り出した。その箱を開くと、シックな色の包装紙で一つ一つ包まれている、四角い菓子が整列していた。
蔵道家の将棋部屋で、式部は紅葉とVSをしていた。VSというのは簡単に言うと二人で将棋を指す研究会だ。対局後の感想戦まで一通り終えた所だった。
「いいねー、チョコレート? バレンタインシーズンだし」
紅葉は式部に勧められるままに、そのチョコを一枚つまんだ。包み紙越しにもその香りがほのかに漂う。紅葉は部屋にかかっているカレンダーに目をやった。
「って今日何日? あっ今日じゃん!!」
驚いて眼鏡がわずかにずり落ちた。大きなリアクションをした紅葉に反して、式部は静かにうなずいた。
「あーごめん、気遣わせちゃった?」
「いえ、約束した時にちょうどその日だと思ったので」
表情を変えずに式部はさらりと答えたが、もちろん偶然ではない。
二月十四日、バレンタインデーのその日に、式部紫は蔵道紅葉にチョコレートを渡したいと思ってこの品を購入してきたのだ。賑わうチョコレート売り場に困惑しながら、紅葉が好みそうな、それでいてさりげなく渡せそうなチョコレートをじっくり吟味した上で決めた。
式部は時々、紅葉の自宅でVSをする関係になっていた。だがそれは二人の仲が進展したという意味ではなく、事の始まりから説明する必要がある。


ふとしたきっかけから、式部が蔵道桜の大ファンである事が弟の紅葉に知れた。恥ずかしさのあまり、最初は赤面していた式部だったが、思い切って桜の事を尋ねてみると自然に話が弾んだ。会話の勢いのまま紅葉が尋ねた。
「じゃあ、今度家に来てみない? 兄貴の将棋部屋あるし」
「! 行きます」
とんとん拍子で日時を約束し、その日は別れた。約束の日に式部は手土産を持って蔵道家を訪れた。紅葉の母親は驚いていたが、式部が桜の師匠である春宮の孫と聞き、さらに桜の大ファンである事を知ると、お参りして行く? と勧めてくれた。
思わぬ形で式部は仏壇の前の、蔵道桜と向き合った。手土産のまんじゅうを供えると紅葉と二人で手を合わせ、二階の将棋部屋に上がった。
桜の使っていた部屋、将棋盤、駒の入った小さな箱、研究に使っていた本や書類。その全てが式部には輝いて見えた。その一つ一つをときめくような、恐れ多いような気持ちでそっと触れていくと、
「式部さんめっちゃ目キラキラしてる」
と紅葉は笑っていた。思わずはしゃいでしまい、恥ずかしかったが、紅葉はそんな事を気に留める様子もなく、嬉しそうに桜の話を聞かせてくれた。
当然の流れで一局指すことになった。紅葉が盤の前に座り、駒を盤上に広げて並べ始めた。式部も向かい側に座って、そっと一つの駒を手に取った。取り落とさないように、両方の指を添えて体の真ん中に据えた。
(桜さんの使っていた駒だ……)
その駒を、彫られた文字をじっと見つめていると、紅葉が声をかけた。
「あ、やっぱ歩なんだ」
「えっ?」
言葉の意味が分からずに聞き返した。
「いや、式部さん歩が好きだよな。最初に指した時から思ってたけど、歩の使い方上手いし。好きな駒、歩だろうなーって」
そんな風に見られていたとは思わなかった。紅葉の意外な言葉に少し驚きながら式部は答えた。
「確かに。好きです、歩」
そして熱のこもった勝負をした二人は、それから時々この部屋でVSをする事になる。


紅葉がいただきますと言って、包み紙を破ってチョコを口にした。
「あっうまっ!」
式部の目算は当たっていたようだ。少し溶けやすいが、口どけの滑らかなものを選んで正解だった。式部は密かにその口の端を上げていた。
最初は桜の将棋部屋が目当てのはずだったのだ。けれど式部は、弟の紅葉と話をするうちに、彼の表情に引き込まれている自分に気付いた。それは嬉しそうで、懐かしそうで、それでいてどこか哀しさを帯びていた。
将棋も、最初はどこかに桜の面影を探していたかもしれない。けれどVSの時の真剣な表情に、全ての力を燃やすような指し手に、式部は紅葉自身の将棋に魅せられているのだと気付いた。
もっと紅葉の事を知りたい。そう思った時、すでに恋に落ちていた。
気持ちに気付いてしまった式部は、一瞬で否定した。紅葉にはあの人がいると分かっていたからだ。けれど、もう遅かった。
止められない気持ちを抱えて、それでも今はこうして時々指せるのだから、少しずつでも距離を縮めようと式部は決めた。好んでいる歩の駒のように、一歩一歩前に進んで、いつかもっと近づこうと決心していた。
このチョコレートは、その一環だった。
だが紅葉はチョコを食べてしまってから、突然焦りだした。
「ひょっとして兄貴に? 仏壇に供えてからの方がよかった?」
「いえ違います」
思わぬセリフに式部は面食らったが、表情は変えなかった。そんな式部に紅葉の方が驚いたようだった。
「マジで? じゃ、これ俺に?」
「はい」
式部はチョコレートの箱を紅葉に向かって差し出した。その目はまっすぐ盤の向こう側の相手を見ていた。
「これは、紅葉さんにです」
紅葉がおずおずとその箱を受け取った。照れくさそうな表情で、チョコレートに視線を移し、それから式部に向き直った。
「あー……俺、バレンタインにチョコまともに貰ったことなくて。貰ったことあるの皆に配られるやつばっか。やっと女子に呼び出されたと思ったら……」
『お兄さんに渡して』
「なんてことばっかりでさ。帰ってからちゃんと渡したけど。ちょっと信じられなかったっていうか……」
棋士として活躍していた兄は学校内でも有名だったのだろう。そのエピソードには納得できるものがあった。同時に紅葉が背負っている“伝説の弟”の肩書きが、いかに重いものか改めて思い知った。
でも今の式部が魅かれているのは、伝説の兄とは関係ない、『蔵道紅葉』その人自身にである。
「だからマジで嬉しい。式部さんってやさしー、ありがとう!」
満面の笑顔を向けてくれた紅葉に、式部の心臓がドキリと鳴った。もっとも、それは一切外見には出ていなかった。
「いえ、紅葉さんにはいつもお世話になってますし感謝の気持ちです」
いつも通りの淡々とした口調で答え、軽く頭を下げる。
『計算高い』のは私もだ、と式部は思った。これはあの人に向けて使った言葉だったが、今の自分だって同じだと自覚していた。
紅葉にとって、今の式部は『兄貴のファンで同期』なだけなのだろう。だからこんな風に笑ってくれるのかもしれない。けれどいつか、その肩書を外して『式部紫』自身を見てほしい。そんな日を夢見て、式部は歩のようにただ前に進む。
「あ、式部さんも食べない?」
紅葉がチョコレートを一枚、差し出してくれる。
「頂きます」
口に入れると、自分でもその口どけの良さに驚いた。
「おいしいですね、これ」
「だろ? すごいスーッと溶けてくよね」
紅葉もさらに何枚かチョコを口にした。その香りと甘さが、頭の疲れをほぐしていく。二人の間に、つかの間の和やかな空気が漂った。
奨励会員が恋にうつつを抜かしている場合ではないと人は言うかもしれない。けれど、どうしようもない思いなら、この気持ちを込めて指そうと式部は思っていた。この思いと共に進み、紅葉と共にプロになろう。そう決めていた。
紅葉がふと気づいたように声を上げた。
「あ、ホワイトデーにお返ししないとな。一か月後だっけ? 何倍返しとか言わなかったっけ?」
チョコを貰い慣れていない紅葉はその辺りが曖昧なようだった。式部は静かにうなずいた。
「はい。期待してます、三倍返し」
「マジっ!?」
紅葉が飛び上がらんばかりの勢いで叫んだ。