サニーデイズ

連作短編③/終 足湯に行った後日。川喜田と指したい日笠の話。
GOOD DAYのその後で、川喜田の心境に対する日笠のアンサーのような話。(6279文字)

 五月の朝は、爽やかだ。
 日笠晴は自宅から近くの公園に向かって、歩いていた。Tシャツの上に薄手のパーカーを羽織り、下は高校時代に使っていたジャージを身につけていた。背中には必要な荷物の入った、ウエストバッグを斜めがけしている。
 街路樹はすっかり新緑に入れ替わって、朝日に照らされて瑞々しく輝いていた。
 今日は朝から天気がいい。一か月ほど続けていたが、晴れた日はやはり気持ちが良かった。
 帰り道で話した通り、川喜田に会った翌日の朝、日笠はランニングをしに行った。
『行ってみたんですけど、全然走れませんでした』
 数分で息が切れてしまい、日笠は荒い呼吸でその場に立ち止まった。入院で思っていた以上に体力が落ちているのを痛感した。
『川喜田さんの言う通り、ウォーキングからやります』
 家に帰ってから報告すると、夕方になって返信があった。日笠を労う言葉と共に、こう書かれていた。
『無理しないで少しずつやろう』
 その一言を目に焼きつけて、日笠は次の日の朝も、身体を動かしに出かけた。雨の日を除いてこれまで毎朝、歩いている。最初は近所の神社までだったが、少しずつ距離が伸びていった。最近は近くの公園まで行って、園内をぐるっと一回りして帰るようになっていた。
 五月の連休が明けた。と言っても、日笠にとってはずっと、休みのようなものだったが。
 でも、日々移り変わる自然は、時間の経過を確かに示している。毎日見かける家の緑も、いよいよ鮮やかになっていた。ある家の玄関先では、プランターに花が植えてあった。まだ小さい苗だったが、朝の日差しを浴びて、生き生きと上を向いている。
 日笠が空を見上げると、澄んだ青い空に、ふわふわした白い雲が浮かんでいた。暖かい陽光が降り注いでいる。乾いた、涼しい風が心地いい。
 日笠は以前、こんな晴天の日に川喜田と外で指したことがある。楽しかったその日のことを思い出して、心が温かくなった。それに加えて、帰りの電車で寝てしまい、気がついたら川喜田の肩に寄りかかっていたのを思い出して、思わず顔が熱くなった。
 退院してから、ここまで体力が落ちていたとは思いもしなかった。次はあんなことにならないように、体力作りを続けている。

――川喜田さんと指したいな。

 日笠はふと、そう思った。
 こんな天気のいい日に指したら、気持ちいいだろうな。そこまで考えて、しかし日笠は、見上げていた首を下げた。
――でも、川喜田さん忙しいだろうし。

 ゴールデンウイークに川喜田と指したいと思っていたが、それは叶わなかった。川喜田の大学も新学期が始まったが、五月の連休があるので、日笠はまたすぐに指せるとばかり思っていたのだ。
 将棋に誘ってみると、夜になってから返信が来ていた。
『誘いは嬉しいんだけど、レポート課題が出ているし、休み明けにも医学のテストがあるんだ』
 それに加えて、休み前に父から参考書を渡されたそうだ。二年になって、本格的に医学の勉強が始まったからと言われて。
『父の参考文献も読まないといけないから、ちょっと厳しいかな……』
 そう返ってきてしまっては、日笠も諦めるしかない。川喜田の父の話は、少しだが聞いていた。息子が棋士を目指すことにはずっと、反対していたそうだ。川喜田の話からは、熱心で厳しい父親なのだろうという印象を受けていたが、それは息子が父親の望み通り医者を目指すようになっても、変わらないらしい。
 川喜田さん大変だなと思いながら、日笠はこう返信するしかなかった。
『無理言っちゃってすみません。大丈夫です、また今度』

 連休、指せなかったんだよな。
 日笠は川喜田とのやりとりを思い出して、短くため息をついた。医者になるためには、相当な量の勉強をしなければならないのは分かっている。でも進級した途端に、そんなに勉強が忙しくなるとは思っていなかった。
 この先はしばらく祝日もない。これでは誘いたくても誘いにくいと、日笠は歩みを進めながら、心の中でぼやいた。
 歩道にはツツジの花が色とりどりに咲いていた。日笠は、赤みの強い紫色の花の横を通って歩いていく。犬の散歩をする老人とすれ違った。
 そういえば、うちの爺さん達は、よく毎週指してたよな、と日笠は思った。日笠の祖父と近所のライバルの老人は、対決と称して毎週月曜に将棋を指していた。幼少の日笠が将棋を始めたきっかけが、楽しそうに将棋を指す祖父達だった。
 彼らのそんな関係は、かれこれ三十年も、続いている。ただの将棋愛好者と言ってしまえばそれまでだが、当初の二人は、働き盛りの年代だったはずだ。
 そんな中、よく時間を作って指してたよな、と日笠は気がついた。今とは時代が違うとはいえ、将棋を指すには相手が必要だから、お互いに示し合わせて続いていたのだろう。
 でも、医者になるのに将棋が必要なわけではない。つまり指したいのはただ、俺のわがままなのだと、日笠は自覚していた。
 将棋を指すのは、時間がある時でいい。でもそれなら、夏休みに誘った方がいいかもしれない。いや、もしかしたら、夏休みも勉強が忙しくて指せないかもしれない。
 川喜田の勉強の邪魔はしたくないという気持ちと、でもたまには指したいという気持ちがループしていた。
 でも、あまりにも間が空いて自然消滅みたいになるのは避けたい。せっかく川喜田さんと、将棋を指せる仲になれたのだから。
 奨励会にいた頃、川喜田が入会した時から、日笠はその姿をずっと見てきた。しかし、特に親しくなるわけではなく、約七年の歳月が過ぎていた。あの三段リーグで対局して、本当はもう少し、話をしてみたいと思っていたのだと日笠は気づいた。対局後、ふとしたきっかけで川喜田との縁が繋がった。この関係を無くしたくはない。
 やっぱりここで一度声をかけてみたい。と日笠は思った。断られてもいい。なにより、一度指したいと思ったら、もう気持ちは走り出している。
 何かいい口実ないかな。日笠はそんなことを考えながら、新緑を横目に足を進めた。
 以前、川喜田と指した時のことを思い出す。
 川喜田の大学が春休みに入ったばかりで、その日はまだ肌寒かった。

 ▲

「川喜田さん、将棋が変わりましたよね」
 日笠は、盤上に並んだ駒に目をやっている。二人は一局を終えて、互いの手を検討する感想戦をしているところだった。
「え?」
 川喜田は顔を上げて、こちらに目を向けた。
「前より囚われてるものがなくなったというか……」
 元々、日笠は将棋に対する感覚が鋭い方だった。奨励会にいた時は、センスだけの将棋などと陰で言われていたのも知っている。そんな自分の将棋を打開したくて、研究に力を注いだ。何度も対局することになる相手の将棋は特に。川喜田もその中の一人だった。
 そうやって研究に打ち込むと、いざという場面で、その勘を最大限に発揮できると、日笠は気がついていた。
 だからこの言葉も、感じたことを率直に口にしただけで、深い意味はないつもりだった。
 しかし、川喜田は駒を動かそうとした手を止めた。驚いたように目を見張っている。
「そうか?」
 気まずそうにしている川喜田を前に、日笠は打ち消すように、手を振って応じた。
「でも、今の川喜田さんの将棋も好きですよ」
「今の……?」
 フォローを入れようとするあまり、ストレートな言い方になってしまった。日笠は慌ててごまかした。
「いや、川喜田さんだったらここに指すかな、と思ってたらこっちだったんで、ちょっと意外で……」
 駒を素早く動かしながら、先ほどの将棋の話に切り替えた。

 ▲

 あの場ではうやむやにしてしまったが、日笠は改めて、川喜田の将棋のことを思い返した。
 川喜田は、いつも真っ直ぐにこちらの手を受けて立ってくれる。だから日笠は、その将棋に触れていたいと思う。別れ際には、また指したいと心から願い、口に出すのだ。
 川喜田と指すのは、日笠にとって言わばコミュニケーションの一環だった。
 強い相手と指したいなら、それこそ奨励会の研究会に入れて貰って指せばいい。もう少し体調が良くなって、一局を指せるくらいの体力がついたら、奨励会の仲間に打診してみようと実は考えていた。奨励会へ復帰するにしても、編入ルートを取るにしても、プロになるためには、奨励会の中にいる人間と指すのが一番手っ取り早い。入れて貰えるくらいの実力を、これまでの期間で身につけてきたつもりだ。
 しかし、川喜田との対局はそれとは少し違う。日笠は川喜田のことがもっと知りたかった。これからの川喜田のことも。

 川喜田さんのおかげで、自分のこれまでの思い出も、周りの家族や友達も、自分の将棋も、全部失わずに済んだ。
 夢を叶えられなくて、後ろ暗い思い出にならずに済んだ。
 だから、これから続く日々も、川喜田さんと指したい。
 俺が棋士になって、川喜田さんが医者になっても、指していたい。
 日笠は川喜田と親しくなってから、そう願うようになっていた。

 平坦で歩きやすい敷石を踏みしめる感触がなくなった。ここからしばらくは、土と砂利の混じった道になる。足元を確かめながら、日笠は速度を緩めて歩き続けた。

 一方で、将棋を指すには相手が必要だ。
 もし川喜田さんが、医者になるのを優先して、指せなくなってしまったら――
 今度は、笑って 『ありがとうございました』と伝えたい。
 日笠は、そう密かに決めていた。
 胸の内には、三段リーグで対局した後の、川喜田の表情が思い出されていた。
 日笠の言葉に応じてくれた川喜田は、寂しさの滲んだ表情で、しかし確かに、微笑んでいた。
 去り際のあの表情がずっと心に焼き付いている。
 少年の頃、夢は必ず叶うのだと思っていた。しかし、叶わないこともあるのだと日笠は知った。最後の時、あんな表情で去ることができるだろうか。

 でも、今はそんなことないけどね。沈みかけた気持ちを引き上げた。川喜田は毎回楽しそうだったし、もし嫌々指しているなら将棋で分かる。
 そう思い直して日笠は顔を上げた。
 いつの間にか、歩道沿いの植え込みが途切れている。日笠はハッとして足を止めた。見知らぬ家の庭先にも、白いツツジの花が咲いている。
 考え事をしながら歩いていたら、公園を抜けて、いつもより遠くに来てしまったらしい。
 これじゃ帰れない、と日笠は周囲を見回した。このまま引き返すには体力が足りないだろう。
 そう自覚すると、急速に疲れが襲ってきて、足がふらつきそうになった。どこか座るところはないかと探すと、少し先にバス停があるのが見えた。
 ゆっくりと足を進めると、バス停の脇にあったベンチに腰かけた。いよいよ強くなってきた日差しが眩しかったが、そばにある街路樹がうまく影になっていた。
 日笠は一つ息をつくと、ウエストバッグを下ろして、中に入れていたタオルで汗を拭った。それからスマートフォンを取り出して時刻を確かめた。人々が動き出す時間帯になっていたので、そのうちバスがやって来るだろう。
 日笠は時刻表を確認したが、歩きすぎてバスで帰るなんて、と思った。通勤や通学の時間帯に被るので、車内も混み合っているだろう。それに、せっかくここまで歩いて来たのだから、休んでゆっくりでもいいから歩いて帰ろう、と思った。
 とりあえずここで少し休ませてもらって、公園まで引き返したらベンチに座って、充分に休息を取ってから帰る。
 家に帰るまでのプランを立てて、小さくうなずいた。バッグに入れていた小さな水筒で水分補給をした。周囲には誰も歩いていなかった。近辺の住宅からは、生活音がかすかに聞こえてくる。
 日笠は、ふと川喜田のことを考えた。川喜田さんも今ごろ、大学へ行ってるかな。川喜田さんのことだから、もう中にいるかもしれないな。
 そんなことを思いながら、日笠は川喜田を誘う口実を考えていた。
 そのうち、数人がばらばらにやってきて、バス停に並んだ。様々な服装の人々は、これから通勤や通学するところなのだろう。日笠はこれから出かける人々を、見るでもなく見ていた。
 ほどなくバスがやってきて停まった。並んだ人達が次々と乗り込んでいく。乗らない意思を示すために、日笠はバスから顔をそむけ、うつむこうとした。
 その時、バスの中に川喜田の姿が見えた。混雑した車内の窓際の席に座って、本を広げていた。
 日笠は一度目を疑ったが、紛れもなく川喜田本人だった。ハッと顔を上げると、思わず声を上げていた。
「川喜田さん!」
 その車窓に向かって手を振った。気づくわけないか、と思いながらもそうせずにいられなかった。
 しかし、川喜田はふと顔を上げて、窓の外を見た。日笠と視線が合うと、目を見開いて、それから手を振り返してくれた。
 日笠も大きく手を振った。ドアが閉まり、バスが発車した。
 遠ざかっていく車体を、日笠はじっと見送っていた。バスが角を曲がって見えなくなった時、ようやく今起こった奇跡的な出来事を自覚した。
 川喜田さんが乗ってた!
 日笠は一人、沸き上がる気持ちを抑えられずにいた。
 体勢を整えるように、バス停のベンチに座り直した。脇に置いてあったウエストバッグに目が行った。日笠は中からスマートフォンを取り出し、両手で持つと画面を弾いた。
『バスに乗ってましたね! これから大学ですか?』
 送ってから、多分すぐ見ないだろうけど、と思った。川喜田はそんなにスマートフォンを使わない方だったので、メッセージの既読がつくのはいつも、後になってからだった。
 バスの中で本を読んでいたし、さっき気づいてくれただけでも凄いことだ。後で、大学の昼休みにでも見てくれればいいな、と思いながら画面を消し、スマートフォンをウエストバッグに戻した。
 空はいつの間にか、雲一つない快晴になっていた。
 しばらくして、着信音が鳴った。日笠はバッグから素早く携帯を出し、画面を確認した。
『今日は課外授業で現地集合なんだ』
 読み返している間にもう一言、
『運動続けてるみたいだね』
 川喜田からの返信が来ていた。こちらの服装もちゃんと見ていてくれたようだ。
 日笠は弾むような気持ちで、返事を続けて打ち込んだ。
『毎日天気がいいから、続いてます。今日はちょっと遠くまで来ちゃって』
『そうなんだ。こんなところで会えると思わなかった』
『俺もです』
 ピンポンのように小気味いいリズムで、メッセージが行き来する。
 やりとりをしながら、日笠は川喜田を誘ってみよう――と決心した。
『川喜田さん最近どうですか? もし時間あったら、息抜きに指しませんか?』

 入力したのは結局シンプルな誘い文句だった。
 さあ、どうだ?
 送信してからしばらく画面を見ていたが、ふと我に返った。
 そろそろ着くかもしれないし、すぐ返せる話じゃないからと日笠は思って、画面を消すと、スマートフォンをバッグの中にしまった。
 青い空を見上げると、心地よい風を感じる。遠くの方から、小さく鳥の鳴き声が聞こえていた。
 朝の空気に身を任せていると、バッグの中から着信音が鳴った。

『六月の日曜なら空いてるよ』

 急いで確認した画面には、そう通知されていた。目に焼きつけるように、何度もその文章を読み返していると、さらにメッセージが届いた。
『もう着くからまた夜に話そう。日笠の都合も教えて』

 日笠は飛び上がるような気持ちで、思わず立ち上がった。
『俺は日曜ならどこでも空いてます! 夜に連絡待ってます』
 入力欄のメッセージを送る前に、朝の空気を吸い込んだ。
 陽光に照らされた新緑が、きらきら輝いていた。

あとがき