医者になった川喜田と、棋士になった日笠が再会した、奇跡の一日の話。
原作に描いてあること以外は全て私の捏造です。※捏造過多注意
(20198文字、全4ページ)
【この話の設定】
・川喜田は小児科医です。
・日笠は編入でプロになり「棋帝」のタイトルを持っています。このタイトル名は架空のものです。
・中二で四段になった少年が「名人」になっています。
【注意】
・時事問題(将棋関連や感染症)を反映した部分があります。
・新将棋会館は全て素人の妄想です。
・将棋に関して変なことを書いている部分もあるかもしれませんが、温かい目で見て頂けると助かります。
それはガラス張りの自動ドアなので、あと少し踏み出せば開くだろう。
川喜田利人は、その扉の前に立っていた。
ビルの入口に、先ほど見てきた映画のポスターが貼ってある。
ポスターの端にはメモ用紙が貼られ、手書きでこう書かれていた。
当連盟棋士
日笠晴(現・棋帝)の
実話映画です!
日本将棋連盟
それは余命宣告からプロ棋士になった『奇跡の実話』の映画だ。
川喜田はその文字を読み、もう一度足元に目をやった。
あと一歩を踏み出そうか、迷いがあった。将棋会館は一般の将棋ファンも気軽に出入りできる場所だ。
しかし、今は入る用事がない。自分には場違いなのではないだろうか。
そんな思いが拭えなかった。ここはもう、自分が通っていた将棋会館とは違うのだという思いもあった。
川喜田はもう一度ポスターに目をやると踵を返し、ビルの前を通り過ぎた。
奨励会員だったころ通った道は、十年の歳月を経てところどころ変化している。
日曜日なので人通りが多い。夏の眩しい日差しの中を、一人で歩いていた。
あの三段リーグから十年後、川喜田は医者になっていた。
今日は休日で、午前中に映画を観に行った。先ほど見ていたポスターの、日笠の半生を描いた実話映画だ。
昼食を済ませ、まだ映画の余韻が残る中、川喜田はかつて通っていたその場所を訪れてみたいと思った。
将棋会館のある千駄ヶ谷の駅に降り立ち、覚えのある道を辿った。
■
三段リーグでの対局後、川喜田は師匠である飯田の道場へ退会の挨拶に行った。
対局後に自分で記録した棋譜を見ながら、あの第一六局を振り返っていた。
「途中で、また同じ思考のパターンに囚われそうになったんです。でもその時師匠の言葉を思い出して、自分に負けずに指せました」
飯田は穏やかにうなずきながら、川喜田の話を聞いていた。
「僕が投了した後、彼が泣いていて……。絶対プロになって活躍する、と言ってくれたんです。それを聞いて、決心ができました」
川喜田はそこで言葉を切って、一度深呼吸をする。
「僕は医者になります。師匠、ご期待に沿えず、申し訳ありませんでした。お世話になりました」
向き合った飯田に深く頭を下げた。顔を上げると、飯田は軽く首を降った。
「そうか……。残念だったけど、利人が自分で決めたなら、よかった。応援するよ。最初は高校生からプロを目指すなんてと思っていたけど……」
師匠になって欲しいからと、川喜田が何度も頼み込みに来た時の事を思い出したのか、飯田は軽く笑みを浮かべていた。
「僕も利人が弟子になって、二つとない経験をさせてもらいました。ありがとう。お疲れ様」
労いの言葉に、川喜田の目が思わず潤んだ。その表情を見た飯田が驚いている。
「すみません……」
手で目元を拭うと、飯田が慰めるように、肩を軽く叩いてくれた。
今までの将棋に打ち込んできた日々の事が思い出された。ずっと見守ってくれていた師匠の存在に、改めて感謝の念が湧いてきた。
あれからどうしているのか尋ねられて、川喜田は医大の受験勉強に取り組んでいるのだと話した。
「一つお願いがあります」
「うん?」
「これからも、師匠、と呼ばせて頂けないでしょうか」
飯田が不思議そうな顔でこちらを見た。奨励会を退会になったのだから、師弟関係は解消している。しかし川喜田は、あえてそう尋ねた。
「師匠には将棋に限らず、色々な事を教えてもらいました。僕にとっては、人生の師匠なので」
「いや、照れるなぁ」
飯田は首の後ろに手をやった。
「僕には勿体ないくらいだけど、利人がそこまで言うなら、好きにしなさい」
「ありがとうございます」
川喜田は改まって頭を下げた。
帰り際に飯田が告げた。
「またいつでも指しにおいで。時間ができたら、道場を手伝いに来ても構わないし」
奨励会に在籍している間、川喜田は会費や生活費を補うために、飯田の道場でアルバイトをしながら、将棋の勉強に励んでいた。
この後、受験から入学まで時間ができて、しばらく飯田の道場に通った。医大に入ってからも、一、二年の間は時折、道場に顔を出していた。
「お世話になりました」
「勉強、頑張って」
「はい」
川喜田はしっかりと頷いた。
■
雑踏の中、川喜田は旧将棋会館への道を歩いている。将棋会館は、四年ほど前に移転した。建物の老朽化が進んでいたためで、川喜田が退会して一年ほど後に移転計画が発表されていた。
日笠とは、あの三段リーグでの対局以来、会ってはいない。
手術が成功したらしい事は、師匠である飯田の道場で風の噂に聞いた。
川喜田が再び日笠の姿を目にしたのは、プロ編入を決めた対局の動画が配信された時だった。退会してから数年が過ぎていて、川喜田が医大を卒業しようかというころだ。
日笠は二十六歳の年齢制限までに治療からの復帰は叶わず、奨励会は退会となった。
だが、病気治療を終えてアマチュアの大会で次々と好成績を上げ、あの日語っていたように、ついにプロ編入試験の資格を得た。
年月が経っていたが、スーツを身にまとい、盤の前に座っていたのは確かに日笠だった。
しかし、あの時のように彼の顔はやつれてはいない。指も震えず、しっかりとした手付きで駒を指した。
川喜田は回復した日笠の姿に、まず何よりも安心した。
彼の将棋は、当然の事ながらあの日より格段に進化していた。しかし、積極的な攻めや巧みな戦術はあの日の将棋に通じるものがある、と川喜田は感じた。
ただ一つ、大きく変わっていたのは、日笠の表情だった。
終始ポーカーフェイスを保ちながら、彼は対局していた。プロ棋士は基本的に、相手に心の内を読まれないためにポーカーフェイスで将棋を指す。表情には出なくても、仕草や駒を動かす時に感情が判るタイプもいるが、日笠はその所作すら、淡々とこなしていた。あの三段リーグで会心の一手に笑みを浮かべた、あの日笠とは大きく違っていた。
それは、彼が棋士として成長したということなのだろう、と川喜田は受け止めていた。
相手のプロ棋士が投了を宣言して頭を下げると、日笠も表情を変えないまま、深々と頭を下げた。
これが、日笠がプロ棋士になった瞬間だった。
プロデビューを果たした日笠の勢いは止まらなかった。怒濤のように勝ち星を重ね、わずか二年ほどでタイトルを獲得した。プロ編入した棋士がタイトルを獲るのは史上初の出来事だ。このことは将棋界で大きな話題となり、一般メディアも注目した。彼の異色の経歴に、余命宣告からプロになった棋士のドキュメンタリーが放送されたほどだった。
ついには、その『奇跡の実話』が映画化することになったのである。
しばらく歩くと旧将棋会館のあった場所にたどり着いた。老朽化が進んでいた建物は取り壊されて、既に別の建物になっていた。あの頃通った将棋会館はもう無いのだと改めて思った。
川喜田はすぐ近くの神社に寄ることにした。いつもその前を通って将棋会館へ行っていた。三段リーグで日笠と対局したあの日の朝も。
鳥居をくぐると、川喜田が歩く脇で数羽の鳩が一緒に歩いていく。やけに多いので、昔はそんなことなかったはずだけど、と川喜田は思った。足を進めると、『はとのえさ』と筆字で書かれたのぼりが立っている。カプセル式の自動販売機が置いてあって、コインを入れてダイヤルを回すと餌が購入できる仕組みになっていた。カプセルは容器の三分の一ほど入っていた。道理で鳩が多いわけだ。納得して川喜田は本堂へ歩いていった。
社殿の前に出ると人影が見えた。鳩に餌をやっているらしい。男は涼しげな素材の衣服を身につけていて、普段着に見えた。足元には鳩が群がり、右往左往しながら餌を探している。男は向きを変えて半円を描くように餌を撒いた。茶色の髪で隠れていた顔が覗いた。
その瞬間、思わずあっと声を上げそうになった。川喜田はこの男を知っている。しかし川喜田がその名を呼ぶ前に、こちらに気付いた男が声を上げた。
「川喜田さん?」
彼はこちらに数歩、近づいてきた。川喜田はその名を呼ぼうとしたが先に、
「川喜田さん、ですよね」
そう畳みかけるように問われた。その後を鳩が二、三羽一緒についてくるのが見えた。川喜田はうなずき、彼の名前を呼んだ。
「日笠くん。久しぶり」
思いがけず、言葉はするりと口から出た。すんなりと当時の呼び方が出てきた自分に驚く。
日笠はこちらをまじまじと見ていた。
「お久しぶりです」
そしてすぐに深々と頭を下げた。対局の映像で見たような礼だった。あまりにも丁重な行動に戸惑う。日笠が勢いよく顔を上げた。
「川喜田さん、俺……!」
と、言いかけて視線を足元にやり、突然声を上げた。
「うわ! ちょっ、やめろ、今エサやるから!」
日笠の足元に先ほどの鳩が集まってきた。どうやら日笠は靴のあたりをつつかれたらしい。慌てた様子で残っていた餌をばらまくと、鳩はそちらに群がった。
「え、大丈夫……?」
川喜田も声をかけたが、それどころではないようだ。手助けする手段がなく一部始終をただ見ていた。
日笠は鳩を遠ざけるように山なりに餌を放った。
「これで最後!」
野球ボールのように勢いをつけて投げた。鳩はそちらに向かい、餌をついばむ。日笠がこちらに向き直った。
「一回気まぐれでエサやってみたら、くれる奴って認識されちゃったみたいで……」
『はとのえさ』の売り場を見やりながら、呆れたように笑みを浮かべた。川喜田と目を合わせると、先ほど言いかけたらしい言葉を続けた。
「俺、プロになりましたよ」
「ああ、知ってるよ」
「え!」
「今さらだけど、タイトル獲得おめでとう」
「あ、ありがとうございます」
「今は『日笠棋帝』と呼んだ方がいいかな。それとも、『日笠先生』……?」
普通に会話を交わしているが、目の前にいるのはタイトルホルダーだ。狭き門の棋士の中でも、さらに数本の指に入る存在。将棋界ではその強さから『遅れてきた天才』と異名が付き、一連の活躍は『千駄ヶ谷の奇跡』と称されている。
しかし日笠は首を大きく振って否定した。
「そんな! 気にしないで下さいよ。今まで通りでいいです」
「そうか?」
「本当に、気にしなくていいですから!」
念を押すように主張されて、川喜田は戸惑ったままうなずいた。近くで空気を切るような音が立つ。餌を食べ終えた鳩が一斉に飛び立っていった。
飛んでいく鳩を見やりながら、日笠が話し始めた。
「俺、時々ここに来てるんです。ここというか、前の将棋会館があった所に。あ、将棋会館、移転したんですよ。四年ぐらい前に」
知らないかもしれないと思ったのか、日笠は付け加えた。川喜田がうなずいて見せると、日笠にもその意味は通じたようだ。
「移転したけど、やっぱり俺にとっての原点はこっちなんで。初心忘るるべからずで。そのついでに神社に寄って、お参りというより散歩、なんですけど」
言葉を切って、日笠はこちらを見た。突然の沈黙に、わずかな緊張感が走った。
「川喜田さんは? 今日、どうしてここに来たんですか?」
神社には蝉の声が切れ間なく響いている。風が木の葉を揺らした。生暖かい風は、それでもザアッと涼やかな音を立てて通り過ぎていく。
どこから説明しようか、川喜田は少し迷った。
「映画を観に行ってきたんだ。日笠くんの」
「え」
日笠が目を見張った。
「見てくれたんですか」
「ああ。すごくいい映画だったよ」
「本当ですか! って俺が出てるわけじゃないんですけど、嬉しいです」
「でも対局シーンの将棋は、日笠くんのだよね」
日笠はもう一度、え、と小さく叫んだ。
「分かりました? そうなんです、俺の棋譜を使ってて。見てくれて、ありがとうございます」
日笠は、はにかんだように笑みを見せた。対局の時とずいぶん違う。川喜田は少し戸惑った。どちらかと言えば、日笠が病を患う前に例会で見かけていた、明るい彼の方に近い気がする。でも、対局の時と普段では違うのだろうと思い直した。
「それでここに来たんですか?」
「ああ。ちょっと懐かしくなって」
話が脱線したことに気付いて、川喜田は日笠の問いに答えた。
「川喜田さん、今日はお休みなんですね。せっかくだからお参りしていきませんか?」
「ああ……」
日笠は社殿の向こうにある、将棋堂を見やった。うなずいたが、突然の誘いに、川喜田は少し戸惑う。
この神社には棋力向上を願い、将棋の神様が奉られている。しかし、今の自分が願うことは何だろうと川喜田は考えた。だがそれなら、師匠の道場の発展や、病棟で教えている子供達が将棋をもっと楽しめるように願おう。そして、今隣にいる、日笠の棋力向上を願おうと川喜田は考えた。
将棋堂の前に立つと、手を合わせる前に日笠が話しかけてきた。
「俺、初めてお参りした時は爺さんに連れて来てもらったんですよ。小学生の時、大会で勝てるようにって」
川喜田は、懐かしそうに話をする日笠を見ていた。
「今は必勝祈願とか、あまりしないんですけど。結局実力だし。でもせっかくなので次も防衛できるようにお参りします」
日笠は威勢よく手を打ち鳴らした。既に先を見据えている日笠に、川喜田は感心した。
「それに、これで終わる気はないんです。まだまだ上がいますし。棋士になったからには、やっぱり『名人』目指したいんで」
日笠が見据えるのは、現在の将棋界に君臨する、『名人』のタイトルを有した棋士だ。
川喜田が奨励会に入る少し前、中学二年で四段になった少年は、次々と星を重ね、ついに最も伝統あるタイトルを獲得した。その上、現在まで保持を続けている。名実ともに今の将棋界で最強と言っても過言ではないだろう。
現在の年齢を考えれば、一つのタイトルを獲っただけでも充分なのに、日笠はさらに上を見据えている。この貪欲さや向上心の高さは、まさに勝負の世界に生きる棋士のものなのだろう。
あの日、眩しく思った日笠の将棋への情熱を、川喜田は再度実感した。同時に、この世界には向いていなかった自らの性分も痛感する。
参拝を終えると、将棋堂の前に立ったまま日笠が顔を向けた。
「そういえば川喜田さん、新しい将棋会館には行ってみましたか?」
「いや……」
川喜田はそこで一度言葉を切った。
「前は通って来たけど、中には入らなかったよ」
日笠がその目を輝かせてこちらを見た。
「じゃあ、これから行って中見てみませんか? 俺、案内しますよ」
突然の申し出に、川喜田は驚いた。思いがけなく将棋会館に用事ができた。返答に窮しているのが分かったのか、日笠は付け加えた。
「もちろん、お時間あったらでいいんですけど……」
あの朝のように下心があるわけではないのだろう、と川喜田は思った。それに断る理由がない。
「ああ、大丈夫だよ。行こう」
「はい! こっちから行きましょう」
日笠が笑みを見せて、新しい将棋会館へと歩き出した。